王家の風日 宮城谷昌光

2018年3月10日新装版第1刷

 

帯封「王が国を危うくする時、臣下は⁉ 商の名臣・箕子の生涯を通し、現代に通じる問題を描き切ったデビュー作!」

裏表紙「六百年に及ぶ栄華を誇る古代中国商(殷)王朝の王子に生まれた箕子は、甥・紂王の宰相として、傾きゆく王家のため死力を尽す。炮烙の刑、酒池肉林といった悪名高い故事、紂王を惑わす妖姫・妲己、敵対勢力・周の文王、太公望など多彩な登場人物を通し、権力の興亡と人間の運命を描き切った作家のデビュー作品。解説・平尾隆弘

 

「商」と呼ばれる王朝は、後に「殷」とも呼ばれる。この時代に中国は初めて文字を持った。28代目の王・文丁に箕子という子がいる。文丁が崩御すると、長子の羨(えん)が継いだ。羨と箕子は年少の頃から相性が悪かった。箕子は羨王の三人の子を観察すると、三男の受に目をみはったが、後嗣の件には関わるまいと決めた。羨王は卜のために亀を求め、干子(かんし)が行商人を装って東南の異域を巡った。干子は箕子の異腹の弟だった。東南を押さえているのは九公で、九夷の末だった。干子は九公に亀を所望し手に入れたことで、羨王は祭礼を復古した。羨は名に帝をかぶせ、帝乙と名乗り、箕子は狂われたかと思った。帝乙の子・受は叔父の箕子を好んだ。受は知識を愛し狩りを愛した。箕子は北に戻った。箕子を干子が待ち受けていた。干子は子啓を後嗣に推した。北の邑に戻った箕子は土方(どほう)が動く予感がしていた。土方が来たが一戦もせずに箕子の足下に傅いた。商に入貢するつもりはないが、箕子に従うという。流落の父子、父を嬴廉(えいれん)、子を嬴来(えいらい)がいた。廉は一年ほど前までは秦国の君主だった。この父子を救ったのが受だった。父子は受に仕えた。受が世子となり(後の紂王)、箕子は輔相するよう帝乙から命じられた。帝乙が崩御したが、羌の小部族はそれを知らなかった。この部族を商の軍勢が襲った。この戦いの中で脱出した少年が望である。父は望に孤竹に行けと命じた。望が後の太公望呂尚である。喪中は大臣だけで王朝を運営せねばならず、箕子だけでなく干子も入閣した。周という国は神怪な国である。伐っても伐っても、不死鳥のように翼を張る周の底力は商にとっては不吉である。二度死んでいるはずだが、伐たれるたびに衰耕するどころか、肥え太っている。周を征伐するにしても、喪の三年間は動けない。この間、箕子は召を聘(へい)命してはどうかと受に進言したが、受は苦り切った。召は周に叛旗を翻していた。箕子の提案は議会で拒絶された。周の昌王が長子の伯邑考と入朝した。受が即位し、帝辛と名乗った。昌は周侯と呼ばれ、九夷の君主は九侯、卾の君主は卾候と呼ばれた。九侯は商王朝を牛耳るつもりだった。費中は貝を通貨にすると献言し、その貝は九候が握っていた。受が象牙の箸を使うのを見て、箕子は「われその卒わりを畏る、ゆえにその始めを怖る」(韓非子)という心境を抱いた。受は、東方と南方への重要な場所である黎の地なかんずく梁山で狩りをするといった。狩りとは言え、全ての諸侯に人質と玉を差し出すよう要求した。受は従わない諸侯に恐ろしい刑罰を与えかねない気勢を示した。炮烙(ほうらく)の刑である。盂方伯が叛いた。この討伐とは別に蘇の君主を受王に進んで見えるように箕子は周の昌をして蘇を説得させ奏功し、蘇は妲己(だっき)を受に差し出した。受は東方親征のため十月間不在だったが、これが歴史を大きく変転させた。九侯の離叛である。沙丘の宴で九侯と顎侯は受に捕らえられた。尹佚は妲己を寝室に入れてはならぬと受に言ったことで妲己から恨まれた。何の理由もなく尹佚は妲己から復讎され笞刑を受けた。尹佚が伯邑考から貰った貝が零れた。尹佚を救い出した周侯は囚われの身となったが、肉屋の青年望が周侯を救い出した。望は過激派を形成し反商の為の地下組織を拡充していた。受は周公の長子伯邑考を煮殺しそのスープを周公に飲ませた。望は周侯の破獄では大義が立たないと苦心し、望の立てた謀計により周候は受より赦宥され、周候は西伯に任じられた。望は、商打倒のために周召連合構想を周侯に持ちかけた。箕子は受に周が召と結ぶことを辞めさせようとしたが、受は周が裏切ることはないといい箕子を用いず辞めさせてしまった。干子も職を辞した。受の第二次東方親征のタイミングで周は崇を伐つ挙に出た。これに反応したのが干子だったが、干子の動きを大逆と判じた受は干子を絶命させた。箕子は王が狂ったのなら自分も狂おうと決意し、自ら狂人の態度を示して受を儆戒しようとしたが、受に伝わらず幽閉された。望の八面六臂の活躍で周召連合は実現し周は紂王討伐の途についた。この時、周が武力革命に立ち上がったことに反対したのが有名な伯夷・叔斉の兄弟で履義の死をもって周を批難した。商軍は周軍に大敗した。首を斬られた商人は17万7779人、捕虜は30万230人にのぼった。受と妲己は鹿台に登って自ら火をかけて死んだ。受王の死により六百年続いた商王朝は崩壊し、王命は周室に移った。商周革命は維新とうたわれた。周に囚われた箕子を発が訪ねて商が滅んだ原因を訪ねると、有名な九疇を説いた。周から逃亡した箕子は土方と一緒に北へ向かった。『史記』では箕子は朝鮮の国主になったとあるが、朝鮮民族はそれを否認している。彼は麦秀の詩「麦秀でて漸漸たり 禾黍(かしょ)油油(ゆうゆう)たり 彼の狡憧(こうどう) 我と好からず」を詠った。商人はこの詩をきいて皆涕を流した。