私の履歴書 原安三郎(日本化薬社長) 日本経済新聞社

昭和55年6月5日1版1刷 昭和59年2月23日1版15刷

 

①骨膜炎で体が不自由に

②樺山さんのこと

③商売はじめ

早稲田大学時代

⑤雨敬さんのこと

⑥日銀への就職断る

⑦たった一人の入社試験

⑧薬丸金山

⑨忘れられない争議の苦労

⑩金港堂の経営整理

日本硫黄時代

⑫事業観に影響を与えた人

 

明治17年3月1日、徳島で生まれる。3歳の時に伝染性の骨膜の炎症のために左足と右腕が不自由なままに固まってしまった。そのため家で四書五経孟子、春秋を教わった。学校に通ったが、身体障害を理由に中学2年の時に退学させられた。当時の陸軍大将で文部大臣が徳島視察に来た時に直接会って不平を言った。翌年から体操課目を課さなくよくなった。早稲田でずいぶん勉強して卒業まで一番で通した。学生時代、人間修業のため偉い人を歴訪しようと思い立ち、雨宮敬次郎さんを訪れた。大学総長に山本条太郎さんを紹介され、三井物産の季節外れの一人面接を受けた。家庭の事情を話した後、日本と支那間で起きた事件を批判する文章を百ページ書いてそれを英語に直せといわれ、苦心して提出したら長男で体の具合が悪いことを理由にぐずぐず言い出したので退去して山本さんの家を訪ね、そこで最初の仕事として薬丸金山を手掛けた。出版社の整理や雑誌の仕事を経験した後、日本硫黄監査役に。第一次大戦の初期に船の売買に携わる。事業観、人生観に一番影響を与えた山本さんの言葉「若い時分には、人より半時間早く出社し人より半時間遅く退社せよ。金の使い方に注意し“死に金”を遣わず“生き金”を使え。ことに同じ金なら時をみて大事な時に先手を打って使え。また事を決める場合は相手の立場になって考えろ」