武田信玄 木暮正夫 

1986年6月15日 第1刷発行 2016年 第49刷発行 

2017年10月18日新装版第1刷発行

 

父・信虎を反面教師として、父のように戦だけを好むのではなく、民の生活に潤いを与えようと様々な政策を実行する信玄。金山を開発し、治水工事を行い(信玄堤が有名)、産業を興し、城はどこまでも質素にして「人は城 人は石垣 人は堀 なさけは味方 あだは敵」を文字通り実行した信玄。上杉謙信との5度にあたる大戦も読みごたえがあるが、軍師山本勘助や自ら天下統一のために最後の最後まで死力を振り絞って戦い抜く様も見事である。信玄が病に倒れて一番喜んだのが信長であり、家康である。そして涙したのは上杉信玄である。勝頼は結局信玄の遺言を守らず、長篠の合戦で大敗して最後は自害、武田家は滅びる。死ぬ前に800枚もの白紙委任状のようなものを作って3年間は静かに耐え続けよと具体的に指示を出していたとは知らなかった。結局、勝頼は遺言を守らず、武田家といえども、盛者必衰の理のとおりの姿を演じてしまった。その後、天下を取った家康は、武田家の家法「甲州法度」を手本に、260年に政治の礎を築いたわけだから、何という皮肉だろうか。

最後に、細かい歴史のエピソードではあるが、信玄と家康との戦いのギリギリの舞台は実は三河・吉田城にあったようだ。信玄が三河まで出陣し、新城市まで攻め込み、豊橋を目指していた最中に、家康の配下の酒井忠次は吉田城に逃げ込み、家康が援軍をひきつれてかけつけたところ、信玄は軍を引き上げた。家康を恐れてではなく血を吐いたために信玄は府中で養生し、その後北条氏康が亡くなったので再度京を目指し、最も全国統一に近いところまで登りつめたものの、結局浜松市近辺で肺を病み、吉田城を攻め落とそうとして出陣を諮った矢先に死に絶えてしまった。

吉田城は小さくて魅力のない城と思っていが、そんなことはなかった・・・歴史を知らず己が無知に呆れ返る昨今である。