伊達政宗 独眼竜の挑戦 浜野卓也 

1986年10月15日第1刷発行 2017年5月10日第58刷発行 2018年3月20日新装版第1刷発行

 

疱瘡に罹患した政宗は右眼が異様に晴れ上がり、それを長年にわたって苦にしていた。政宗は、父から、人生の師として恵林寺の快川和尚(心頭滅却すれば火もまた涼し)の秘蔵弟子の虎哉宗乙(こさいそういつ)と、兄のような友として片倉小十郎景綱を与えられる。ある時、白装束に身を固めた小十郎から命がけの説得を受けて、右眼を切り落とす覚悟を決め、眼帯の姿になる。11歳で元服し、13歳で結婚、15歳で初陣を迎え、人取橋の合戦で手柄を立てる。その後、父を亡くすも、政宗は東北の地で着実に領土を広げていき、秀吉から上洛するよう命じられる。その間、母が弟をかわいがり、果ては暗殺を企てたために弟を刃にかける。政宗は、1度目は秀吉の前には白装束で現れ、一命をとりとめるものの、再び呼び出されたとき、磔柱を立てながら白帷子を着て白馬にまたがって登場。秀吉の前で、政宗は謀反の証拠とされている政宗の文書を堂々と主張して、政宗の筆跡をまねた者が偽造した謀略文書であり、自らを陥れる策謀であると主張して、秀吉はこれを信じたのか、はたまた政宗の登場の仕方が面白いと思ったのか、分からないが赦免される。朝鮮出兵の際にもド派手ないで立ちで京の話題となる。秀次謀反という三成の讒言のために秀次と親しかった政宗が再び秀吉に疑われることになったが、家康が秀吉を説得して救われる。秀吉の死後、家康から天下のことを依頼され、徳川家の補佐を頼まれ、仙台に城を移し、城下町を作り始めた。もともと荒れ地の多い土地だったが、1000体の石仏があったので「仙台」(千代)という地名に改められたそうだ。更に金の採掘、精鉄、うるし、養蚕、製塩、良馬の生産など産業の開発に励む。川村孫兵衛を呼び寄せて北上川の改修工事を行い、100万石の礎を築く。70歳で没。

 

東北が生んだ紛れもない英雄である。