昭和62年2月13日1版1刷
①次々手掛けた新商品
②川崎家
③少年時代
④小石川の寮
⑤米国留学へ
⑥ケニオン大学
⑧3年目で英語に自信
⑨川崎貯蓄銀行入り
⑩近衛師団
⑪新婚生活
⑫兼任重役
⑬営業員重視で好業績
⑭大ヒットの貯蓄保険
⑮第百・三菱銀行合併
⑯バロン西の思い出
⑰応召そして終戦
⑱戦争約款で保険壊滅
⑲占領軍
⑳財閥解体
㉑“浪人”生活
㉒父の死
㉓社長就任
㉔新種保険誕生
㉕“行政特許”
㉖会議嫌い
㉗支社を自前のビルに
㉘狩猟
㉙ゴルフ半世紀
㉚周りの支えで今日に
・明治39年10月川崎銀行頭取の二男として東京で生まれた。アメリカのケニオン大学で4年間留学。卒業後、川崎貯蓄銀行に入り、肩書は取締役だったが実態は銀行の見習社員だった。虎ノ門の東京倶楽部に入れてもらうと、三菱の岩崎隆弥、恒弥さん兄弟や貴族院議員の秋元春朝さん、ゴルフの赤星兄弟の一番上の鉄馬さんなどが常連だった。吉田茂さんも毎日この倶楽部に来られた。福徳生命の取締役でもり保険業務に足を踏み入れた以降、私は後半生は保険で生きるしかないと思い定めた。昭和16年に第百生命徴兵保険が発足し、私は常務の一人になった。17年に金融事業整備令が公布され、三菱と第百が合併したことに伴い、川崎財閥は本拠の第百銀行を失った。戦後、三井、三菱などは財閥形態を回復したが、川崎グループは保険が中心で製造部門はほとんど持っていなかったから回復の基盤がなく、川崎財閥という名前も実体もその時点で消えてしまった。公職追放令の公布で、日本海上火災の会長をしていた兄、常務だった川崎豊が職を辞し、私も第百生命常務の座を明け渡し、顧問に退いた。そのほか日本信託銀行、千葉銀行、常陽銀行などからも川崎家はすべて手を引いた。川崎家の人間が一斉に退陣した後、第百生命は第二会社として第百生命保険相互会社を22年に設立した。私は10年後に専務、38年に副社長、40年に社長に就任。製麺保険は従来満期か死亡途中のいずれかでしか保険金が受け取れなかったが、交通事故で入院した場合も入院給付金を受け取れるようにした新生活保険・交通災害入院保障保険はヒットし、新種保険開発の実力は、総合保障保険、がん保険開発でも発揮された。総合保障保険は交通事故など災害によるものでなく病気入院まで含めた総合的な医療保険にしようとするものなので、入院確率をはじき出すことが重要だったが、アクチュアリー(保険計理人)はこれをはじき出すことに成功し、ヒットした。48年に社長を譲り、以来会長として12年間経営陣のバックアップに務めた。(昭和61年7月より第百生命保険取締役相談役)