晏子 第4巻 宮城谷昌光

平成9年10月1日発行 平成11年8月20日8刷

 

裏表紙「崔杼は慶封と手を組み君主を弑した。一旦は崔杼の専制が成ったかにみえたが、崔氏は分裂崩壊し、代わった慶氏も謀せられた。脆弱不安の政情下、晏嬰は天の意志、民の声を全うしうるのか。後代、司馬遷がその御者になりたいとまで敬慕した晏嬰。彼の毅然たる進退の冴えは、様々な組織に生きる我々現代人にも深い感銘を与えるだろう。稀代の聖人の人生の哲理を捉えた巨編、堂々の完結。」

 

崔杼は荘公を弑した。遺骸に別れを告げに来たのは晏嬰ただ一人だった。晏嬰の姿を見た崔杼は己を問責に来たと思い、晏嬰殺害を思い立つが、晏嬰を殺せば国民が黙っていないと言われて諦めた。晏嬰は宮門を出て行った。その時の言葉が「ゆっくりやりなさい。疾く走っても、かならずしも生きられるわけではなく、ゆっくり走っても、かならずしも死ぬわけではない」だった。公子杵臼が次の君主となり景公となるが、実権を握ったのは崔杼だった。崔杼は自らに心服しない者を次々に殺していった。晏嬰は崔杼に組せず諫めたが、崔杼は晏嬰だけは殺せなかった。殺せば人心が離れるからであった。政争が起き、崔氏は滅亡、崔杼と手を組んで荘公を殺した慶氏も滅んだ。景公の聴政が始まった。景公は晏嬰を呼び寄せて過分の褒賞を与えようとしたが、晏嬰は受け取らなかった。己の幅を越えたものは受け取ってはならぬ。「利過ぐればすなわち敗をなす」である。生涯を律しきった晏嬰は奇跡に近い。37歳の晏嬰は遂に国政に参加した。呉の公子季札が斉を訪れ晏嬰に邑と政を返納するよう助言し晏嬰はこれに従った。斉の権力闘争は暫く続いたが、それに距離を置き、晏嬰は社稷を最上位に置いた。ある時、晏嬰は一人の僕隷に目を止めた。越石父(えつせきほ)と言い、従者にした。景公が晏嬰の家をお忍びで見に行った。あまりにみすぼらしい家だったので家を新築させた。が晏嬰は大きすぎると言って取り壊してしまった。そんな晏嬰も越石父から自らを忘れているから去りたいと迫られ、自省の厳しい晏嬰でさえ自己を忘れることもあった。子皮とは肝胆相照らす仲となった。遂に斉の宰相となった。悪名高い楚の霊王の前でも晏嬰は「橘化して枳となる(たちばな かして からたち となる)」と述べ、霊王も思わず笑った。晏嬰が危篤と聞いて景公は駆けつけ遺骸にとりすがり自らを日夜諫め続けてくれたことに涙を嚙みながらいった。10年後に景公の死が訪れた。

 

父子揃って一流ですね。特に晏嬰が臣下として景公に諫言するのではく、社稷を常に抱き、自らの立場を超越して、一切ぶれない、それを生涯続けるところが本当に凄い。