竹鶴政孝(ニッカウヰスキー社長) 私の履歴書 経済人11

昭和55年11月4日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①生まれは瀬戸内・竹原のつくり酒屋

②柔道部でも活躍した中学・高工時代

③大阪の摂津酒造へ“押しかけ就職”

ウイスキーの勉強にイギリスへ出発

⑤スコッチの本場グラスコー大学へ入学

⑥肌で学んだウイスキーづくりの神秘

⑦異郷で芽生えた妻リタとの愛情

⑧よき師の下でウイスキー修業総仕上げ

⑨国籍の障害を越え、イギリスで結婚式

⑩帰国後摂津酒造を退社、寿屋へ移る

⑪水明の地・山﨑に原酒の工場を建設

⑫本格ウイスキーづくりに苦心を重ねる

⑬母の死を機に独立の第一歩を踏み出す

⑭戦後の混乱期にも良質品を送り続ける

⑮妻に恵まれ幸運だったウイスキー人生

 

広島県竹原生まれ。多くの方が扉を開いてくれる幸運に恵まれてウイスキー一筋に生きた。イギリスにウイスキー留学した際、習ったこと、見たこと、感じたことはどんな日でもその日のうちにノートに字と絵で書き留めた。ローゼスでグラント氏から職人的指導を受け、イネ―博士から学問的な指導とブレンドの訓練を受け、ウイスキーづくりの自信が出来た。リタとの国際結婚は実家に大反対されたが、摂津酒造の阿部社長が訪英しリタに直接会うとおメガネに叶った。帰国後本格ウイスキーの製造計画に取り掛かったが、役員会で否決され辞表を出した。寿屋の社長鳥井信治郎さんから本格ウイスキーをやってみたいと請われ、山﨑に工場を建てると決め10年契約でスコットランドから技師を呼ぶ待遇で雇われた。ウイスキー工場を作るのに役立ったのが例のノートだった。相談する相手が一人もない中で完成に漕ぎ着けた。造石税でなく庫出税にすべきとの主張を大蔵省主税局に認めさせるために粘り強く交渉し、酒税法が改正されてウイスキー原酒に例外が認められた。約束の10年が過ぎたこともあり円満に鳥井さんの会社から退社して独立し、余市に工場を持った。ウイスキーづくりにうってつけの条件をそなえた土地だった。昭和15年にニッカウヰスキー第1号を発売し、戦後、ゴールドニッカ、ブラックニッカを売り出し、洋酒ブームでウイスキーを楽しむ人が増えた。原酒の混合量が5%未満で2級というのは日本独特のもので混合率を引き上げることで品質を向上させたいと大蔵省に要望し、これが入れられて混合率は引き上げられた。しかし原酒0%でもウイスキーとして出せる点は是正されなかった。リタが若くして亡くなった時のショックは大きかった。その後、税制改正に伴い、ウイスキーの質の規制が前進した。原酒混和率3%アップとなり、7%未満のものは製造できなくなった。日本のウイスキーの品質アップに大きく貢献すると思われる。ホワイトニッカはこの混和率が大きく引き上げられた税制改正にのっとって売り出したウイスキーである(昭和45年よりニッカウヰスキー会長。54年8月29日死去)