昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷
①蓮華と名刹に囲まれた琵琶湖岸で誕生
②府立四中時代、兄亡き後の養子になる
③実業界を夢見て東京高商に入学
⑤印刷屋の娘と見合い結婚
⑥密命帯びて北海道から伏木工場へ転任
⑦直江津工場再開後、青海工場長になる
⑧社長に就任し、自家発電所を設ける
⑨石灰窒素の宣伝中に天祐
⑩近藤前社長のお供で“社長職”学ぶ
⑫石油化学に進出のため五井集団に参加
・明治22年10月15日滋賀生まれ。兄の用心棒のような形で東京府立四中に入学し、実業をやるために東京高等商業学校に進んだ。卒業後、北海カーバイドに入り、電化一筋に勤めた。北海カーバイドの創設者藤山常一博士は我が国カーバイド工業及び石灰窒素工業の父と仰がれる人である。10年余の青海工場長職を経て昭和26年8月社長に就任し、30年1月会長に推された。義太夫は四代目鶴沢清六師に巡り合い力を入れ出した。茶道は藤原銀次郎翁に勧められてその気になった。裏千家の鈴木宗保匠から手ほどきを受けた。謡曲の師匠は青山観世の華雪師だった。(昭和43年より45年まで電気化学工業会長。50年1月12日死去)