昭和55年12月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷
①武内宿彌から70代目―父母は若死に
②成績一番のチビ級長―テニスで鍛える
③叔父の家から平安中学へ―5年間首席
④大谷法主の側近にー九条武子夫人を知る
⑤2か月の受験勉強で三高合格―親友たち
⑥東大で岸元総理と同期―官吏断念住友入社
⑦争議解決に一役買う―土井家に養子入り
⑧商工課から東京支店開設へ―幅広い交際
⑨初代厚生課長に就任―住友化学へ転ず
⑩空襲で大阪工場壊滅―平和産業に転換
⑪社長就任―技術導入と事業の総合化達成
⑫白水会の創設―業界・財界に奉仕
⑬「天は自ら助くるものを助く」を信条に
・モットーは「艱難汝を玉にす」。明治27年5月1日尼崎生まれ。生家は宿彌山浄専寺。幼い時に両親を亡くし祖父母、叔父、叔母の家庭で育った。父の弟の原田了哲叔父が進学ヲ進めてくれたお陰で平安中学(現在の平安高校)に通う。叔父は西本願寺の寺務の中枢の地位にあった。第三高等学校に入学し生涯の友田路舜哉君に巡り会う。入学時には知事を目指したが、すぐに目標を変えて内務大臣を目指し東大法学部を志望した。卒業時、内務省の採用試験に合格したが、田路君が住友へ行くと決めたことが影響し、住友に入社した。田路君ともども人事二課に配属され労働問題を担当した。工場協議会制度と退職金規定を整備し争議は円満に落着した。人事二課時代に土井家に養子入りした。経理部商工課、東京支店総務課長、本社厚生課初代課長を経て、48歳で住友化学に転じた。戦後昭和22年に社長に就任。26年暮れから旧住友関係会社12社の社長に呼びかけ、白水社と名付け、毎月1回会合を持つ。これに日本板硝子、住友海上火災、住友不動産、住友セメントが入会し現在16社に増えた。会社経営の要諦は社長個人としての能力がいかに優れていても限界があり、多数の部下にその力を十分に発揮させ、その総合力をいかに結集し、活用するかが大事である。(昭和50年より住友化学工業相談役)