茂木啓三郎(キッコーマン醤油社長) 私の履歴書 経済人14

昭和55年12月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

          ①九十九里の生まれ―気丈な母と兄と

          ②汽車通学―毎朝5時前には家を出る

          ③一橋大学時代―上田ゼミで人格形成

          ④野田醤油に入社―労使関係の実態調査

          ⑤野田醤油争議―一時は無警察状態に

          ⑥産業魂を提唱―二代目啓三郎を襲名

          ⑦初代啓三郎―稚気満々たる“聞学士”

          ⑧茂木一族と醤油―主人先頭に諸見改め

          ⑨太平洋戦争―国の重要書類を預かる

          ⑩二つの発明―天然醸造醤油の味守る

          ⑪渡米で得た自信―世界の調理料めざす

          ⑫豊かな生活―「一隅を照らす」生活を

 

明治32年8月5日千葉県生まれ。県立成東中学校に通うため毎朝午前4時58分に家を出た。東京商科大学に合格。卒業間近に佐野学長が4人の学生を招待し、卒業後はテーマを決めて原書を毎日1ページずつ読み給え、1年に1冊、それを10年続ければ10冊になる、それがその方面で専門家になる道だ、毎日丹念に、1日も欠かしてはいけないと諭された。卒業時は上田貞次郎先生に野田醤油を勧められて入社した。上田先生から理想的な労使関係を作ってみたまえと言われたこともあり、労使関係の実態を調べると、労使間に共通の理念がないことに根本原因があった。大正末期から昭和の初めにかけての争議は殺人事件や人が複数死んだり警察官400人以上が動員されたりと大争議が続いていたが、昭和3年に一応解決したので産業魂に徹することを社是として決定した。茂木家に養子として入り、養父の死後に啓三郎を襲名した。養父は元々勝海舟先生の書生にして貰おうとしていたが家業の醤油業をやりなさいと言われ、市川市に工場を作りキッコ―誉というマークで醤油を出した。キッコーマンは特許を取っても無料無条件で技術を公開した。戦後GHQのアップルトン女史からアミノ酸醤油にすべしと内示された時は国難と言ってよかったが新式2号の醤油を発明し、業界全体に公開して国難を乗り切った。この醸造法による醤油が残り今日に至る。即日掘り出し式をS式と命名し、これにより大豆3割節約を実現して値下げを行った。S式はNK式たん白処理法と命名し総理大臣賞が与えられた。昭和39年に野田醤油をキッコーマン醤油株式会社に改めた。大阪府知事だった佐藤義詮先生から教わった「一隅を照らす」という言葉は印象に残っている。(昭和49年キッコーマン醬油会長。55年同取締役相談役)