星雲遥かに(三)(四) 大内俊助の生涯 佐藤雅美

2016年6月10日発行

 

病気になった文吾を見舞った俊助は、文吾から実は下級役人の倅で天才のように振舞っていただけだと打ち明けられる。その文吾があっさり亡くなった。俊助は代わって近藤忠之丞、熊倉伝十郎、小松典膳らと付き合い、お喜美と関係を持ち、朱子学を身につけたところで一体何の約に立つのかと益々悩みを深めていた。俊助は頼まれるままに伝十郎と典膳を次郎助に引き合わせ、茂平次を共通の敵とした。お喜美に子が出来て住まいを求められたが、俊助は相手にしなかった。するとお喜美の代わりに現れたお久美から犬畜生に劣る生き方をするがいいと言われ、俊助は仙台の父から勘当を申しつける手紙を受け取る。お喜美の話が父に伝わったからだった。俊助は次郎助を頼み韮山に向かった。俊助は小嶋啓四郎と再会した。啓四郎は塾頭をしていた。啓四郎に着いてきたのが太田庄次郎だったのに俊助は驚いた。朱子学より砲術を学ぶ時代なのかもしれないと皆考え始めていた。長崎で遂に茂平次の居場所を突き止めた。後は耀蔵から証言を取り高島四郎太夫の冤罪をどう晴らすかだった。伝十郎と典膳は茂平次を捕まえ敵討ち免許状の請判を貰い江戸を目指した。次郎助は俊助を韮山塾に入れることを考えた。朱子学から蘭学に衣替えする者が増えた。茂平次を北の御番所に突き出すと、鳥居耀蔵が病気を理由に南町奉行を辞任した。黒船が来航し、俊助は庖丁を握りながら調練場通いを続けた。俊助は料理人として咸臨丸に乗り込みアメリカに渡った。勝海舟福沢諭吉ら遣米使節団を乗せた船がサンフランシスコからメイ・アイランドに移動した3月3日、桜田門外の変が起きた。時は移り、俊助の子弥吉、孫俊平が祖父俊助を訪ねた。俊平は三菱商船学校に入学し、祖父と同じ海運会社三菱会社に就職した。学校の制度もガラリと代わり、俊平は祖父に儒教がないがしろにされているのをどう思うか尋ねた。俊助は海外行きの船上で、知識を磨くには儒教しかなかったら儒教で知識を磨き、だから西洋の文明をすんなり受け入れることができた、考える訓練をしたというのは大きな財産だと教わり、それを孫にも教えた。