土門拳(写真家) 文化人8

昭和59年1月10日1版1刷

 

①出生

幼年時代

③小学校に入学

④「狐の嫁入り

⑤絵への情熱

⑥横浜二中時代

⑦居候

⑧気ままな日々

⑨写真への道

⑩朝逃げ

⑪伊豆へ撮影旅行

⑫自由な仕事

⑬結婚

⑭喧嘩

弘仁

文楽に打ち込む

⑰ささやかな好意

⑱ライバル

⑲再び寺回り

⑳写真集「風貌」

筑豊

㉒古窯

㉓「古寺巡礼」

㉔報恩

 

・明治42年10月25日山形県生まれ。中3の時に父の女の問題で母子2人の苦闘の生活が始まった。横浜図書館で美術、文化、歴史関係の蔵書は殆ど読んだ。文学では志賀直哉に傾倒した。横浜美術展覧会で油絵が入選し、中4では考古学に熱中した。中学卒業後、逓信省の倉庫人足になったが、顧愷之の才能に叶わないと思い、画家志望を断念した。叔父の家に居候している時は三味線に熱中し、その後弁護士の家に書生として住み込んだが2年半ほどでやめた。この間、農民組合の運動で何回か豚箱に入れられた。母から写真を勧められ、宮内幸太郎先生に習うようになった。名取要之助先生に習いたくなって、宮内先生から逃げ出した。名取先生の日本工房の写真部に入ったが、性格が合わずやめて、国際文化振興会に入った。東大出の給料が85円の中、150円の月給だった。文楽を撮り、乞食写真を撮り、婦人画報の撮影の仕事をしたりした。政府の援助を受けている振興会の人間が政府の批判としたとして振興会は辞め、戦後、宝生寺、法隆寺には何度も通った。撮りためた肖像写真の中から83枚集めて「風貌」とい写真集を出した。「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「古窯遍歴」「古寺巡礼」などを世に出した。ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手をにらみつけ、時には語りかけながら、被写体がぼくをにらみつけてくる視点をさぐる。そして火花が散るというか、二つの視点がぶつかった時がシャッターチャンスである。