水谷八重子(新派女優) 私の履歴書 文化人12

昭和59年3月2日1版1刷

 

①初舞台-島村抱月先生のおめがねに

松井須磨子と共演-ご褒美にお菓子

③演劇勉強三昧-新劇で芝居の基本学ぶ

④震災の焦土から-牛込快感で演劇復興

⑤「芸術座」誕生-19歳で一座を持つ

⑥女性初飛行-強行日程の冗談口から

アメリ渡航-ハリウッド見学に感銘

⑧新派入り-“新劇育ち”から脱皮図る

⑨歌舞伎と共演-守田との恋のうわさ

⑩結婚-尊い体験生かして舞台に幅も

⑪大戦下-空襲に追われて芸術座を解散

⑫“明朗離婚”-家庭との両立に苦悩

⑬芸ゆめいのち-大衆現代劇樹立が願い

 

明治38年8月1日東京生まれ。水谷八重子の芸名を初めて使ったのはトルストイ作「アンナ・カレーニナ」の子役セルジーをやった時だった。雙葉女学園時代に青い鳥のチルチルに出演した時にその事が知れて退学か出演を打ち切るかの二択を迫られたが、成績と素行が斟酌され退学だけは逃れた。舞台に欲を持ち出した最初が「青い鳥」だった。青山杉作先生の指導で戯曲の勉強を始めた。映画「寒椿」に出演したことが再び雙葉で問題にされた。17歳でチェホフの「かもめ」のニーナ役を演じた。関東大震災後、「芸術座」を新設した。イプセン「人形の家」やアンドレーフ「殴られる彼奴」を出した。順調に滑り出したが、築地小劇場が出来、共に手を取ってきた人たちと別れた時は悲しかった。渋谷の娶楽座を建て、牛込から移った。入りは悪くなかったが赤字公演が続いた。浪花座では記録破りの大入りだった。松竹で「大楠公」の映画撮影をした頃、ハリウッド見学に出掛けた。27歳の時、“国民文芸会賞”を頂戴したのは嬉しかった。新派に仲間入りして4,5年経つうち、素直に溶け合えないものを感じ出し、歌舞伎の皆さんとの共演回数をたびしげく持つようにした。芸術座を支えた義兄が亡くなり、姉と私と支配人の渡辺直造の3人の合議制で芸術座を続けることになった。兄が他界した年に30歳となり、新派に不満の井上先生が新派と新劇の間をいく演目の上場を目指し“中間演劇”運動を起こし、私も一役買って出演した。義兄他界後に支えになってくれた守田勘弥と結婚したが、結婚後に男性の観客が増えた。昭和15年当時、新派は“新生新派”、“本流新派”、“中間演劇”、“芸術座”の4つに分散していたが戦争が進むにつれ公演が不可能になってきた。戦後再び演劇公演が復活し、24年には劇団新派の旗印のもとで家系を守った。現代劇運動を起こし、妻の責務に時間がさけなくなり、26年には守田と離婚した。この時一番苦しみを理解してくれたのも守田だった。30年後半から40年にかけて病魔に襲われたがいずれも乗越え演舞場に立つ。新派は常に生活を持つ家庭人を対象においてきたが変容と進展へのあがきの連続だった。私の過去もこのあがきに終始したという気がする。芸・ゆめ・いのちの六字は久保田万次郎先生から贈られた名だが、この六字を繰り返したい。(昭和54年10月1日死去)