生きる 乙川優三郎

2005年1月10日第1刷 2010年3月20日第7刷

 

裏表紙「亡き藩主への忠誠を示す『追腹』を禁じられ、生き続けざるを得ない初老の武士。周囲の冷たい視線、嫁いだ娘からの義絶、そして息子の決意の行動—。惑乱と懊悩の果て、失意の底から立ち上がる人間の強さを格調高く描いて感動を呼んだ直木賞受賞作他、『安穏河原』『「早梅記」の2篇を収録した珠玉の中篇集。解説・縄田一男

 

生きる

2年ほど江戸で病臥している藩主・飛騨守の容態が思わしくない。筆頭家老の梶谷半左衛門から石田又右衛門と小野寺郡蔵は呼び出された。用件は、あと十日のお命と思われる中、追腹をしそうな二人を呼び出して、追腹の禁令を出し、追腹を止めさせる相談だった。梶谷は忠義のために追腹を止めることはできないという小野寺に先腹なら嫡男に迷惑はかからないから直ちに先腹をとも、死んだつもりで生きてくれとも言う。二人は誓紙をしたため、追腹をしないことを誓った。藩主が亡くなると、禁令があろうとも詰腹をするのが当然であろうと又右衛門に詰め寄る者や禁令を無視して追腹する者も現れた。娘の夫・真鍋恵之助も追腹した一人だった。娘から夫の追腹を思いとどまるよう説得を頼まれていた又右衛門は悔やんだ。日が経つにつれ、周囲の又右衛門への視線は冷たくなった。最も追腹を切りそうな男が何故生きているのか。城は針の筵となった。子の五百次も追腹で死に、妻もほどなく病で死んだ又右衛門は久方ぶりに小野寺に会ったが、2人とも全く精彩を失っていた。恨みつらみを全て書いて吐き出して死のうとした又右衛門だったが、書き出すと闇の中に一条の光が差し出した。12年が経過した。又右衛門は隠居した。相手が誰であろうとも決して弱みを見せない顔になっていた。家老が詫び状を送ってきたところで今更何になろう。悔恨や寂寥は腹に仕舞って顔に出ない。成長した娘と息子に再会した又右衛門は2人を見つめおろおろと泣き出した。

 

安穏河原

逼迫した藩の財政を立て直すために藩が講元となり領民から金を集めることに反対した双枝の父羽生素平は、藩に金集めでなく藩の歳出を切り詰め、窮民を救うことが先決だとする筋の通った意見書を提出したが、採用されず国を出て江戸に入った。が世間の厳しさを思い知り、満足に食べることも出来なくなると、娘の双枝を遊郭に売り飛ばした。後悔した素平は伊沢織之助に頼み、客として娘の様子を見てもらっていたが、双枝は厳しく育てられたせいもあり、織之助が鰻を取ってやっても、双枝は父から教えられた通り「おなか、いっぱい」と答え、人から物を恵んでもらうことを潔しとしない人としての誇りを持ち続けた。娘を助け出すと約束した期限の6年が間もなく経とうとしたが、身請けの金を用意できなかった素平は藩屋敷を訪ね、武士として切腹したいと申し出、家老の許しを得て切腹を果たすと家老は30両を同行した織之助に渡した。織之助が双枝がいる女郎屋を訪ねると、警動の貼り紙があるだけで、双枝の行先が分からくなっていた。6年が経った。織之助は30両を一部拝借して商売を始め、拝借した分はきちんと溜め直した。ある時、道で出会った団子を見ていた童女に団子を買ってやろうとすると、「おかな、いっぱい」と答えたので驚いた。母親のことを尋ねると、武家の出だったが、2か月前に亡くなったという。双枝が母親かは分からない。が童女に、今見える河原の眺めをよく覚えておくんだよと語りかけ、できることなら双枝が見た河原に変えてやりたかった。

 

早梅記

高村喜蔵は出世に意欲を燃やし、実際に出世を果たしたが、妻を亡くし、鬱々とした日々を過ごしていた。賄賂で出世を手にする者もいたが、喜蔵はそうしたくなかった。喜蔵は命がけで使者を務め、昇格を果たした。かつて下女として働いていた”しょうぶ”は、妻を迎えるまで事実上の妻だった。妻を迎える前に、しょうぶは自らの匂いさら消し去って出て行った。”しょうぶ”の行方はその後聞かなかった。妻は明るい声でよく笑った。妻との間で子をもうけ、大目付に昇進した。子から、母上を大事にしてあげてくださいと言われると、生意気な事を言うなと子に返事をした。子は憎しみに燃えるまなざしをしていた。このままではいけないと思いつつ、役目に追われて溝を修復する暇もなかった。退身後、残ったのは屋敷と高禄と気持ちの通わない家族だけであった。妻は呆気なく死んでしまった。喜蔵はしょうぶと妻の二人に支えられて生きてきた。散歩道でしょうぶと23年ぶりに再会した。しょうぶは人間違いと言い、貧しい暮らしの中にも幸福は生まれるという態度を取った。いまも潔さと強さを兼ね備えていた。小さな蕾をつけた白梅の枝を差し出された喜蔵はこれを手にし、いつになく穏やかな気持ちになって散歩道を歩いた。