田中久重と技術 河本信雄

2021年10月15日初版第1刷発行

 

表紙裏「田中久重は、いまから220年以上まえの九州に生まれ、職人、技術者、起業家として幅広く活やくしました。天才的なからくり職人、灯火具製作者、時計師であり、さらに日本ではじめての蒸気船と蒸気機関車の模型、大砲、電通機をつくりあげました。本書では、久重自らが、技術ひとすじに生きた、その生涯を語ります。」

 

目次

田中久重とわたし

はじめに

1 人びとがよろこぶものをつくりたい―からくり儀右衛門(7歳~35歳)

   開かずの硯箱/雲切人形/風砲/自動で動くからくり人形/久留米からの旅立ち

2 人びとの役にたつものをつくりたい―職人久重(35歳~53歳)

   無尽灯/学問を学ぶ/蘭学を学ぶ/万年時計/蒸気船雛形/京都からの旅立ち

3 日本の役にたつものをつくりたい―技術者久重(53歳~82歳)

   蒸気船/電信機/施条後装砲/上京、万年時計とともに/実用電信機/最後の旅立ち

受け継がれる技術

 

久重は、1799年、久留米のべっこう細工師の家に生まれた。若い頃から手先が器用で発明家でもあった久重は、開かずの硯箱、雲切人形、風砲、自動で動くからくり人形、無尽灯を次々と作り出し、齢五十を過ぎてから、尚も蘭学を学んで西洋時計の技術を学んだ。緒方洪庵と並び称される広瀬元恭先生の自習堂という蘭学塾にも入門し、万年時計を完成させた。更にその技術を活かして弓曳童子(からくり人形の最高傑作とも言うべき作品)を作る。蒸気機関を日本で初めて作ると、後に日本赤十字社を創設する佐野常民が久重を訪れ、佐賀藩で西洋の技術製品を作ってほしいと依頼してきた。鍋島直正は藩主となり20年以上経過してその間外国船が日本を攻めてきた場合の対抗策を考え続けた賢公の一人だった。そして佐賀藩に転居して凌風丸という日本で初の実用蒸気船を完成させた。蒸気機関と同時に電信機の製造についても直正は長崎に電信機があるうちに研究するよう命じ、電信機を修理したことのあるグルックという科学技術に詳しい医師から図面を見せてもらった久重らは電気部品とともに機械部品を理解した。それでも完成までに2年半を要した。再び久留米半に請われて久留米に戻った久重は大砲、中でもイギリスが開発した施条後装砲(アームストロング砲)の製造を作るつもりでいたが、海に面していない久留米藩で必要なのは陸上の戦いに使う小型で移動可能な大砲だと言われて了承した。ところがガンマニアの頼咸公が大型のアームストロング砲のような施条後装砲を作るよう指示し、2年で完成させた。73歳でウィーン万博に参加するため上京したが、一足違いでウィーン万博への出品物は積荷されて出発していた。東京は西洋の新しい技術が真っ先に入るので東京で工業製品を作ることにし家族を東京に呼び寄せ、東京に工場兼店舗を設立した。電信機の製造は電信局が本格的に始めることになり久重の工場の殆どと従業員と設備・機械は電信局に移管された。久重が銀座の地に設立した新工場は東芝の源流とされている。