宮沢賢治 1896-1933 ちくま日本文学003

「革トランク」

 どうやら肥大化した虚栄心を、革トランクは表現しているらしい。

 帰京を繰り返していた、賢治の自虐的なネタとも言われているらしい。

 

セロ弾きのゴーシュ

 楽長に厳しく叱られたゴーシュが、その日の夜中から次々に現れる動物に毎晩のようにセロ弾きを習い、最後はコンサートで大成功を修め、アンコールまでやってのけるというお話だ。動物がセロ弾きを教えるというファンジーが賢治らしい。賢治自身も実際にチェロを弾いていたらしいが、動物に習って上手になるというのは、誰に習おうが素直な心掛けがあれば誰でも上達するっていうメッセージなのかな。

 

注文の多い料理店

 読めば、誰でも、ああ、こういう物語って確かどこかで読んだなあと懐かしがるだろう。今、改めて読み直してみると、鉄砲撃ちの若い紳士2人が犬を連れて猟に行った際に間違って犬を撃ち殺してしまう冒頭の場面があり、その後森の中で奇妙な料理店に入った後、次々にテンポよく人間が食材用に踊らされていく描写が続き、遂には自分たちが喰われる直前になっていることに気づいたために恐怖で顔が引きつり、紙くずのようになった顔が元に戻らなくなってしまったという最後の場面で終わるのだが、このコントラストこそが、賢治の鋭い感性を感じさせる。生き物を粗末にした者は、因果応報で自分に後で災いが降り懸かってくるぞっていう隠れたメッセージを偲ばせているように思う。

 

春と修羅」より

 序 

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電灯の

ひとつの青い照明です

(あらゆる透明な幽霊の複合体)

 

ここから始まる。

有機交流電灯」「ひとつの青い照明」「透明な幽霊の複合体」

なんとも不思議な言葉が続く。

 

その後にも、

 

因果交流電灯の

ひとつの青い照明です

 

とある。

何やら、賢治が、自身の生命の実体・実態を、詩的表現で表そうとしているような気もする。

 

もう少し後ろの方で

 

人や銀河や修羅や海胆は

宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら

それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが

それらも畢竟こころのひとつの風物です

 

とあり、

最後に

 

すべてこれらの命題は

心象や時間それ自身の性質として

第四次延長のなかで主張されます (大正13年1月20日

 

として締めくくっている。

何やら宗教的な、哲学的な主張をしているような詩だ。