曽根崎心中 今丈ヒロ子

2019年1月31日第1刷発行

 

日本のシェークスピアとも言われ、芝居台本の作者として生きた近松門左衛門。有名な曽根崎心中だけでなく、近松の生涯が詳しく紹介されている。1703年4月7日、大阪の曽根崎村にある天神の森(現・露天神社)で、お初と徳兵衛という若い男女が心中した事件を元に人形浄瑠璃の台本が作られた。300年以上も前の作品だが、当時は心中という字が忠をひっくり返した字であることから、心中を描く芝居や小説の禁止令が出たり、心中そのものを禁止する禁止令が出たとか。

 

さて、近松の父は越前(福井)の藩士。10代半ばに家族と京都に引っ越す。人形浄瑠璃に魅せられる。源氏物語史記など海外の歴史書など豊富な知識があったので、御水尾天皇の弟・一条禅閤恵観公(公家)のために働くようになる。宇治賀太夫宇治加賀掾)に目を付けられ、浄瑠璃太夫として近松の2歳上の清水五郎兵衛(後の竹本義太夫)と一緒に宇治賀太夫の下で宇治座を盛り上げる。一人前の台本作者になる際、ペンネームを近松門左衛門にする。杉森家の、杉の森の中の一本になれない松、近江の三条家から出た家なので、近松。門前の小僧と組み合わせたらしい。50歳になった近松は自分の作風に疑問を持ち、「人間や世の中の真に迫る話」を作りたいと思い、歌舞伎の坂田藤十郎に相談するが、藤十郎の賛成は得られない。そんな中、久しぶりに竹本義太夫浄瑠璃を聞きに大阪に出ると、曽根崎心中のことを耳にする。竹本座に入ると、歌舞伎やからくり人形芝居に客を盗られて、人形浄瑠璃の人気は完全に落ち目になっているのを目の当たりにする。人形浄瑠璃の再興のために今の時代の世の中を描いたものを作る、その作品が曽根崎心中であり、人形浄瑠璃を一変した。正直者で仕事に精を出していた徳兵衛は銀2貫をだまし取られた上に証文を偽造したなどと濡れ衣を着せられ、騙した男から殴る蹴るの暴行に会い、お初を訪ねる。お初は縁側にうちかけの裾をたらして腰をかけ、徳兵衛を縁の下に押し込むと、騙した男がお初の下にやってくる。そこで徳兵衛の覚悟の程を知ったお初が騙した男を体よく追いやると、二人は2階に上がり、深夜、暗闇の中を歩いて天神の森に出て、松とシュロの木が一本になっているところで二人はかみそりで徳兵衛がお初の喉を突き、その後自分の喉もついて心中する。竹本義太夫は真に迫る台本に驚き、しかも通常よりも遥かに短いので不安を覚えるが、上演してみると、観客は感動の坩堝に。竹本座をそっくりそのまま引き受けたからくり芝居の竹田出雲が竹本義太夫太夫として存続させ、近松を専属の台本役者に引き立て、以後、紀海音と競り合い、72歳で亡くなるまで近松とのライバル関係は続いた。曽根崎心中から88本もの台本を描く(平均して年4本)。

久しぶりに人形浄瑠璃を観たくなりました。