稲山嘉寛(八幡製鉄社長)私の履歴書 経済人8

昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①“鉄づくり”産業の中で-アイアン・エージ

②大晦日に生まれた「あわてん坊」

③父に誘われて花柳界

④わんぱくな小学校時代

⑤水戸高落ちて二高へ進む

関東大震災と青年時代

⑦無試験で東大商科へ

⑧兄と互いに妻えらび

⑨「高文合格」条件に製鉄所入り

⑩“戦国時代”終わり業界結集へ

⑪販売部時代に結婚

⑫製鉄合同ついに成る

⑬戦火のなかで流転

⑭「協調で平和」を確信

 

・鉄は産業のコメである。昭和36年12月31日銀座で生まれたが、戸籍上は37年1月2日になっている。祖父は稲山銀行を始めた。錦城中学、仙台の二高へと進み、東大商科は無試験で入れたため対象3年に東大に入学した。高文パスの条件付きで商工省採用製鉄所勤務となり、受験日までに1日14時間勉強に熱中し合格した。八幡在勤後、東京へ転任となり、6年後日鉄合同となった。日本製鉄株式会社設立の際は第4課長の辞令を貰い、戦時下では九州地区管掌の命令を受けた。九州支部長、本社営業部次長を経て終戦を迎えた。戦後アイゼンハワー大統領の顧問シャーマン・アダムス氏は、個人の考えではなく大統領の言葉として、世界から貧乏を追放せねばならない、自由主義国家群の団結と繁栄を造り上げねばならない、日本の繁栄になることは惜しまず協力する、日本に必要な鉄をつくるために必要なら資金を、原料不足なら原料を、設備や技術なら設備や技術を喜んで供給するとの言葉を伝えられた。翌年周恩来首相を訪ね、戦争は全てを破壊する、平和こそ万物の創造を齎すものだと言われた。自由協調こそ人類に平和の世界をもらたすと確信している。(昭和45年新日鉄社長に就任。48年同会長。55年より経団連会長)

 

終わらざる夏〈中〉 浅田次郎

2010年7月10日第1刷発行

 

裏表紙「片岡の一人息子・譲は、信州の集団疎開先で父親の召集を知る。譲は疎開先を抜け出し、同じ国民学校六年の静代とともに、東京を目指してただひたすらに歩き始めた。一方、片岡ら補充要員は、千島列島最東端の占守島へと向かう。美しい花々の咲き乱れるその孤島に残されていたのは、無傷の帝国陸軍、最精鋭部隊だった。―否応なく戦争に巻き込まれていく人々の姿を描く著者渾身の戦争文学、中編。」

 

  片岡の息子譲は、疎開先で庫裏に忍び込んで供物の饅頭と干菓子を進んだ級友の罪を被った。嘘はいけないと訓導に諭されても級友を最後まで庇った。後で犯人は訓導に名乗り出てきた。訓導はしっかり者だと思った譲に家からの手紙を読ませた。父が召集された譲は疎開先から東京に向かった。途中で逃げ出した近所の上級生の吉岡静代と一緒になった。「シュムシュ」の名のいわれはクリルアイヌ語の「シーモリシリ」が訛ったものだと伝えられる。意味は「美しき島」「親なる島」である。カムチャッカ半島とは僅か12キロしか離れていない。久子は譲と一緒にいる静代の家を探すのに必死だった(第三章)。

 色丹島で菊池は診療所に寄った。鬼熊は戦陣訓を語ってもらいたいと依頼され、悲惨な戦争体験を話した。占守島に日魯漁業の缶詰工場があり、400名の女子挺身隊を含む2500人の民間人が送り込まれた。(第四章)。

 色丹を出港した3人は占守島に無事到着した。方面軍参謀𠮷江少佐が出迎えた。譲と静代は浅間山、軽井沢を通っていた(第五章)。

 

 

新装版 日本風景論 志賀重昂

2014年2月10日第1刷発行

 

帯封「水蒸気、火山、流水‥が作り上げた 美なるかな、この国土。登山を推奨し、景観保護を訴え、文化風土を讃える。明治の大ベストセラーにしてクラシックである!」「登山の気風を興作すべし」「志賀重昂は一介の旅行者としてすでに日本の山川を驚嘆すべき精力で跋渉し、地理学的に観察し、それを情念をうちに秘めた文章によって次々と論述し、その地に関係ある日本文学の古典のなかの叙述例をこれまた豊かに挿入し、また樋畑雪湖、海老名明四の実景描写を加えて、…内容、形式ともに完璧ともいうべき刊行物であった…(『解説』土方定一

裏表紙「地理学者・国粋保存主義者である志賀重昂は、日本を地理学的に最初に紹介した。科学的・実証的な論述でありながら、日本文学の古典を豊富に引用し、詩情豊かに自然美を讃える。近代日本登山の嚆矢の書でもある。明治画壇の名手、樋畑雪湖・海老名明四の俊逸なる挿画も多数掲載。日本人の景観意識に決定的変革を与えた記念碑的著作は、今なお新しい。」

 

目次

一 緒論

二 日本には気候、海流の多変多様なる事

三 日本には水蒸気の多量なること

四 日本には火山岩の多々なる事

付録 登山の気風を興作すべし

五 日本には流水の浸食激烈なる事

六 日本の文人、詞客、画師、彫刻家、風懐の高士に寄語す

七 日本風景の保護

八 アジア大陸地質の研鑽、日本の地学家に寄語す

九 雑感(花鳥、風月、山川、湖海の詞画について)

解説 土方定一

 

味わうべき良書の1冊である。巻末の解説に、小島鳥水が志賀重昂の文章を「理を尽くした欧文素と、簡潔勁抜な漢文脈が、よく融和している。しかも嫋々ともいうべき余韻が、漂っている。漢文脈といっても、破墨山水でなく、欧文素といっても油絵のこってりではない、謂わば水彩画の軽快なる筆触と明朗なる色沢である。当時の文壇において、柴四朗(東海散士)徳富猪一郎(蘇峰)志賀重昂は、三大文章家として並称されていた」といわれている通りである、と指摘されているが、見事な漢文調を基調とした美文である。

終わらざる夏〈上〉 浅田次郎

2010年7月10日第1刷発行

 

裏表紙「1945年、夏。すでに沖縄は陥落し、本土決戦用の大規模な動員計画に、国民は疲弊していた。東京の出版社に勤める翻訳書編集者・片岡直哉は、45歳の兵役年限直前に赤紙を受け取る。何も分からぬまま、同じく召集された医師の菊池、歴戦の軍曹・鬼熊と、片岡は北の地へと向かった。―終戦直後の“知られざる戦い”を舞台に『戦争』の理不尽を描く歴史的大作、待望の文庫化。第64回毎日出版文化賞受賞作。」

 

昭和20年に入り、大本営の編制科動員班は千島列島の前縁にある占守島にいる精鋭部隊に英語が達者な兵員を配置する決定をした。占守島は千島列島の北端、その先にはカムチャッカ半島がある。盛岡の第三課動員班長の佐々木曹長東京外国語大学を出て東京で出版社に就職した片岡直哉への召集令状を実家に届けた。召集令状を届ける役目を負った役人の苦衷が詳細に描かれている。大本営レベルでは軍隊構成の為の数字に過ぎないものが具体的な個人名に変換されて召集令状の作成担当者もそれを届ける者も鬼だと思われるのを承知で役目を遂行せねばならなかったのである(序章)。

東京神保町の千秋社出版に勤務し翻訳を担当していた片岡直哉は、岩手県の実家から召集令状が届いたとの報せを受けた。45歳11か月の片岡はあとひと月もすれば、兵役年限の四十六歳を迎える。片岡には女子高等師範(現お茶の水女子大)を卒業後、妻久子と信州に疎開している4年生の息子の譲がいた。妻久子の実弟は南洋で玉砕し、実弟を守ることができず、夫の出征にも何もできず、新宿の街かどで千人針に立つ。片岡は弘前の聯隊に向かった。富永は4度目の応召だった。かつて勲章を授与された経験を持つ。彼は非常に素行の悪い乱暴者であったが、唯一の身寄りの貧しい母が飢えないよう周囲の者が約束してくれた。医学生の菊池は岩手医専卒で帝大医学部の学生だが、家庭の事情を斟酌して嘘の診断書を作成したこともある若者だった(第一章)。

米軍が本土上陸を決行するのは時間の問題だった。占守島には関東軍の精鋭戦車部隊が配備されていたが、輸送艦の不足により配置換えすら出来なくなっていた。途中で北部軍補充隊の指揮下に入りし、片岡は富永熊男と医学生の菊池忠彦と一緒に根室から千二百キロ離れた最前線の占守島に向かった(第二章)。

ゴネるお客さまも納得する ワンランク上の「接客交渉術」 宮田寿志

2018年7月10日初版発行

 

表紙「クレームも怖くない『とっさのときの大人の応対』

こんな対応、していませんか?

◎「申し訳ございません」を繰り返す

◎「できません! 」と即答する

◎「ルールなので〜」が決まり文句

◎「もう一度言います」「先ほどもご説明したはず」

これらはすべて「NG」です。」

表紙裏「接客は、お客さまから無理難題を言われたときの対応が決め手。『申し訳ございません』は、逆にお客さまの怒りを増幅させている。では、どう切り返せばお客さまを納得させることができるのか?」

 

目次

こんな対応、していませんか?

はじめに「脱・申し訳ございません」のススメ

第1章 めんどくさいから謝っておこう、は通用しない!

第2章 店員が思わず言葉に詰まるお客さまのあの一言への対処法

第3章 お客さまには「バレない演技」をしよう!

第4章 お客さまとのトラブルを回避する接客のコツ

第5章 ゴネるお客さまもちょっとうれしくなる「ヨネショウ」トーク

第6章 怒りの炎を燃え上がらせる大噴火ワード ワースト8

第7章 人生、ときには「受け流しボックス」も必要!

巻末付録 ゴネるお客さまも納得するワンランク上の「トーク事例集」

おわりに

 

・絶句言葉も冷静に受け止めれば、①言い分、②質問、③要望に分類できる。①言い分には共感で、②質問にはきちんとした説明をもって、③応えられない要望にはいかに出来ないことを納得してもらえるか交渉力を身につけることが必要。

・時には演技力も必要。心の中で思うことを表情に出さず、申し訳なさそうな表情をすることも必要。

・接客の主導権はお客に渡さないで、お客には決定権を与える。その際、共感➡提案➡懇願の順序を踏むことも忘れない。

 

こういうルールを頭の中にきちんとインプットしておけば、慌てず冷静に対処できると思う。なかなかさすがなテクニックですね。実践で試してみないと血肉にならないような気もするのでしばらくは強く意識しておこうと思いました。

高杉晋一(三菱電機相談役)私の履歴書 経済人8

昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①「天運移すあたわず」を信じて

②「物外の哲学」のなかに流れるもの

③中学時代・ガマ退治に筑波山

④東大を出て、三菱へ入社

⑤結婚してロンドン留学

岩崎弥太郎社長のこと

終戦の混乱のなかで

⑧朝鮮動乱で息を吹き返す

財閥解体に対する“最後の一線”

⑩三井・住友と共同戦線をはり、禁止令消滅

⑪碁と美術工芸品の鑑賞

 

・昭和25年3月1日茨木県生まれ。土浦中学、仙台の第二高等学校、東京帝国大学英法科に入学し、卒業後は三菱合資会社に入社し銀行部に配属された。四谷支店長、大阪の船場支店長、名古屋支店長の後は三菱電機監査役を命じられた。終戦と同時に取締役、常務を経て22年に社長に就任、31年取締役会長、37年会長を辞任し相談役として今日に至る。名古屋で私が社長の前で発した怪気炎、すなわち“三菱は国家が養成した人材をよりどりに集めて仕事をやらせているが、人材が多すぎて他社へ行けば重役の勤まる人を部長ぐらいにしている、こんなぜいたくな人の使い方をして事業がうまくいかなかったらおかしいくらいです、もっと人材を登用し適材適所で十分に力量を発揮させることにすればますます三菱は栄える”が、三菱電気行きのきっかけとなった。三菱の大黒柱岩崎弥太郎社長が他界されたのは終戦の年の12月2日。社長は重役社員の政治関与は一切禁じていた。私は追放令の基準の1週間遅れて常務になったお陰で追放を免れ、現社長の関義長常務の2名で仕事に取り掛かった。組合に社長候補者の推薦を求めたところ私が過半数を得て社長に就任することになった。危機も会ったが朝鮮動乱で乗り切ることが出来た。最後の一線で人生は勝負すると言うのが私の考え。どうしても守らなければならない一線、超えてはならない一線、突破せねばならない一線がある。その時断固たる決意で腹を決めて立ち向かうことだ。優柔不断な人間が悲劇の主人公になると相場は決まっている。財閥解体の法令は様々あったが、商号商標の使用禁止は最後のとどめだった。これに抵抗するため三菱は三井、住友と共同戦線をはり、ハッチンソン氏を通じて米国務省に働きかけを行った。最後は吉田首相を通じてマッカーサー元帥に話をしてもらって1年猶予を貰った。再延長の先に司令部の手で廃止することが決まり、講和条約発効日をもって称号商標禁止令は自然消滅した。三井の本城に三菱のエレベーターがあるのはその記念塔である。(昭和53年6月6日死去)

天子蒙塵(四) 浅田次郎

2018年9月26日第1刷発行

 

帯封「『龍玉』にまつわる伝説は最終章へ。放浪の時は終わった。この国とかの国はどこへ向かうのか。日本と中国の浅からぬ縁を綴る国民的ベストセラー『蒼穹の昴』シリーズ、ついに第五部完結!」「天子たちはそれぞれに輝きを取り戻さんとする。満洲ラストエンペラー・溥儀が再び皇帝の位に昇ろうとしている。そんななか、新京憲兵隊大尉が女をさらって脱走する事件が発生。、欧州から帰還した張学良は、上海に繰り返し襲い来る刺客たちを返り討ちにしていた。一方、日本では東亜連盟を構想する石原莞爾関東軍内で存在感を増しつつあり、日中戦争突入を前に、日本と中国の思惑が複雑に絡み合う。満洲に生きる道を見いだそうとする正太と修の運命は。長い漂泊の末、二人の天子は再び歴史の表舞台へと飛び出してゆく。」

 

第4章 ひといろの青

永田の吉永への話は続いた。永田は、姦通罪を適用すべきところを、応召令状の発布をした関東軍の出鱈目ぶりに怒りを覚えた酒井大佐がシベリアまで池上美子を逃がした事件を通して、吉永に関東軍は今も昔も同じか否かを問うた。吉永は張作霖という事実上の国家元首を正規軍が暗殺したことから変わらないと述べた。田宮修が新聞記者の北村に、瀬川と川島芳子のことで質問をしたことで、北村は田宮修が知っていることを聞き出そうとしていた。永田と吉永の懇談の場に永田に呼ばれて石原が合流した。石原は吉原に、張作霖爆破事件に関わっていないが、この事件の轍を踏まぬよう柳条湖事件を起こして満州事件の発端を開いたことを述べた。吉永は、永田が軍務局長になるのは当然としても、石原は軍人ではなく宗教家である、天才でもなければ英雄でもない、日蓮の予言を信じて世界最終戦に至ると信じ、みずからを英雄たらんとする、皮肉屋で臍曲がりの宗教家に過ぎないとし、彼が参謀本部作戦課長という帷幕の最中枢の役職に就くことに危惧を覚えた。周恩来は上海に滞在中の張学良と陳一豆将軍に対し、ただちに内戦を停止して中国人はひとつにならなければならない。そうでなければ祖国が地球上から消えてしまう。その悲劇をとどめることが出来るのは蒋介石でも毛沢東でもなく張学良ただ一人。それを伝えるためにここを訪れたと述べた。宋教仁の教えが21年の時を踏み越えて引き継がれようとしていた。張学良は祖国に帰国した。満州国は共和制から帝政に移行した。溥儀が初代皇帝康徳帝として即位した。梁文秀は官史任命権を皇帝陛下が完全に掌握さえすればよいと進言していた。

終章

かあさんが、子供達に、雷、雲、玲の物語を聞かせて、「どうしようもない」とさえ言わなければ、人間は存外まともに生きてゆける、「きっとどうにかする」と面白おかしくおまえなりに悲しい話でなくて語っておやりといってお終いとなる。

表紙には、清代皇帝の龍袍(ロンパオ)の刺繍が描かれている。