天子蒙塵(三) 浅田次郎

2018年6月19日第1刷発行

 

帯封「希望の地を目指し海を渡った少年二人。新天地から始まる果てしなき道へ。伝説のベストセラー新展開、昭和史の『謎』に迫る。」「運命に導かれ、それぞれの楽土を目指せ。満洲の怪人・甘粕正彦男装の麗人川島芳子、欧州に現れた吉田茂。昭和史最大の事件『日中戦争』前夜、大陸に野望を抱き、夢を掴もうとする者たちが動き出す。そして、希望の光をまとい、かつての英雄が中原のかなたに探し求めた男がついに現れた。その名は-。」

 

第三章 漂泊

満州国の執政溥儀の独白と、軍閥を見捨てて欧州へと逃避した張学良の独白が交互に続く。張学良の下に馬占山が訪ね、溥儀に皇帝の地位を約束した武藤将軍は病で急死した。甘粕正彦は溥儀の天津脱出劇を演出し、吉田茂が突然に欧州に現れた。同じような境遇の木築正太と田宮修の2人の少年が出合い夢を追って満州国へと渡った。川島芳子は第十代粛親王善耆の娘で「男装の麗人」と持てはやされ満州国建国の広告塔となる。池上美子は瀬川啓之と満州へ駈け落ちさながらの逃避行をした。張作霖の配下の李春雷の下に王逸が現れた。毛沢東の家庭教師をしていた。志津大尉が吉永大佐を訪ね、仙台で石原莞爾に会って来たことを報告した。満州国の建国後、満州国協和会が結成され満州国への誤解を解くために映画製作を企図した。瀬川に応召遅延の令状が発布された。オーディションに田宮が合格し、憲兵隊の酒井大尉が瀬川を逮捕した。川島芳子は袁金鎧に相談を持ち掛けた。張作霖の未亡人・寿玉梅が正太の世話をすることになった。張学良は親日派で父張作霖殺しに関与した楊宇霆と常蔭槐を処刑した。欧州へと逃避していた張学良は祖国へ帰る決意を固めた。

町村敬貴(北海道・町村牧場主)私の履歴書 経済人8

昭和55年9月2日1版1刷 昭和58年11月18日1版7刷

 

①父金彌とエドウィン・ダン

②牛に魅せられた男の子

③宇都宮さんの影響

④農学校を出て渡米

⑤ラスト兄弟牧場は第二の故郷

⑥母の死にみぞに身を伏して号泣

⑦渡米十年、米国を去る

⑧北海道で牧場作り

⑨土地との戦い

⑩酪農技術を米国から導入

参議院議員一度だけの演説

⑫真心をもって牛に接す

 

明治15年12月20日札幌生まれ。後に酪農業界の父といわれるオハイオ州エドウィン・ダンが26歳の明治6年来日し畜産事業を手掛け、父はその弟子だった。札幌農学校に第二期生として入学し、私も同じく札幌農学校に進み、その後渡米した。母が渡米中に亡くなり、牛づくりを完全に習得するまで米国を去らない決意を固め、渡米生活が10年に及んだ。ウィスコンシン州立大学の農科大学に入学し2年コースを選んだ。大正5年に帰国し、樽川から江別に移り住んだ。江別の土地は荒れた土地だったが、排水、土地改良に力を注ぎ、江別の牧場経営が軌道に乗るのに10年は要した。20年秋、貴族院議員に選ばれた。私は一介の牛飼いだが、今も江別の牧場で牛飼いに明け暮れている。(昭和44年8月14日死去)

三四郎〈下〉 夏目漱石

2021年9月10日第1版第1刷発行

 

三四郎は別段の用事はなかったが、広田先生に会いに行く。与次郎に20円を貸していて、期限が来た訳でもないが、広田先生の与次郎という人物の見立てを聞くと、心配になった。広田先生から結婚の予定を聞かれ、母親の言うことはなるべく聞いてあげるのがよいと助言される。そして昔の偽善者に対し今は露悪者ばかりだなどと哲学の煙を吐かれた。そんな折、与次郎が原口と一緒に戻ってきた。原口は美彌子が団扇をかざしている構図で絵を書こうとしていた。三四郎は美彌子の家に行った。二人で西洋館まで行くと、美穪子は預金通帳と印形を三四郎に渡し、30円を渡された。原口がくれた招待券があるので絵画展に三四郎を誘った。そこで野々宮と鉢合わせた。三四郎は美彌子が野々宮を愚弄していると言う。精養軒の会で、自然科学の話や絵画の話、小説の話を聞かされた。三四郎は与次郎から美穪子に惚れているのかと聞かれ、分からないと答える。三四郎が郷里に手紙を送ると、里から直接野々宮に金が送られた。三四郎は与次郎からハスバンドになれるかと聞かれると、首を傾け、与次郎は野々宮ならなれると言う。香水を買いに来た美穪子と野々宮よし子に偶然出会い、品定めを任され、三四郎ヘリオトロープを選ぶ。野々宮から30円を受け取った三四郎は美彌子に30円を返しに行く。原口のアトリエを訪ね、モデルをしている美穪子に、金を返すと伝えた。美穪子は疲れた表情をして、原口に帰された。帰り道で、三四郎は、金はどうでもよく、会いに来たと告げた。そこに車を乗り付けた男が現れて、美穪子を車に乗せてどこかに去って行った。与次郎は演芸会のチケットを売りさばいていた。演芸会に行きハムレットが上演されているのを見た三四郎だったが、翌日風邪をひいて休んだ。与次郎が訪ねて、美穪子の縁談が纏まったようだと聞かされた。相手は野々宮でないと言う。インフルエンザに罹った三四郎だったが、よし子が訪ねてきて美彌子の縁談が決まったと言った。相手は、以前よし子を貰うと言った男だということだった。回復後、美穪子宅へ行くと、教会に行って不在だった。教会の扉が開き、終わりから4番目に美彌子が出て来て、金を返そうとすると、美穪子はそれを受け取って、かつて三四郎が選んだヘリオトロープの香水を含んだハンカチを差し出した。「結婚なさるそうですね」と三四郎が問うと、美穪子は「ご存じなの」と、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。丹青会の一室の正面に完成した原口の絵がかけられた。「森の女」と題された絵について、三四郎は「森の女という題が悪い」と言うと、「じゃ、なんとすればよいんだ」と与次郎から尋ねられ、三四郎はなんとも答えなかったが、ただ口の中で「迷羊、迷羊」と繰り返した。

三四郎〈上〉 夏目漱石

2021年9月10日第1版第1刷発行

 

名古屋で汽車を降りた三四郎は、一緒に乗り合わせた女から、宿屋への案内を頼まれ、しかも間違って一枚の蒲団が敷かれた相部屋に通されたが、蒲団の真ん中に仕切りを拵えて寝た。三四郎は別れ際、ただ一言「さよなら」というと、女は顔をじっとながめた後、おちついた調子で「貴方はよっぽど度胸のない方ですね」と言って笑った。翌朝、三四郎は汽車に再び乗車し、ベーコンの論文集を広げて昨夜のおさらいをした。未来のことを考えて元気を回復した。筋向こうの男は中学校の先生のようだった。男は「いくら日露戦争に勝って一等国になってもだめですね」と言い、三四郎が「これからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護しても、男はすました顔で「滅びるね」と言った。東京に着いた三四郎は東京の大きさと人の多さに辟易した。母の言いつけ通り理科大学の教師野々宮宗八を訪ねた。野々村に大学の案内をしてもらった。池のほとりで一人の女性を見た。9月から学年が始まった。三四郎は佐々木与次郎と友人になった。野々宮の妹が入院先の病院から兄に電報を出し、急いで野々宮は見舞いに行った。代わりに野々宮の部屋に三四郎が泊まった。野々宮の部屋の奥で女の轢死体が見つかった。三四郎は野々宮から頼まれて妹の病院に品物を届けに行った。三四郎は病室の出口で池で出会った女性とすれ違った。帰り道で与次郎と会い英語の教師の広田先生を紹介された。広田の引っ越しが見つかると、そこに里見美穪子が訪ねてきた。三四郎は美禰子とは3回目だった。2人は広田の部屋の掃除をした。そこへ美穪子は雲に見とれていた。そこに与次郎も合流した。与次郎は広田を何でも読んでいるのにちっとも光らない偉大なる暗闇だと評した。美穪子が持ってきたバスケットにサンドイッチが入っていた。そこに宗八も帰って来た。与次郎は広田家の2階に居候するつもりでいた。迷子をどう英訳するかという話題になり、美穪子はストレイシープと答える。三四郎は講義中にノートにストレイシープとむやみに書き続けていた。与次郎は三四郎に文壇が急転直下の勢いで目覚ましい革命を受けており、文学の新機運は日本の全社会の活動に影響せねばならないと演説ぶった。野々宮は下宿することになり、よし子は里見家に居候することになった。

 

「生きる」という贅沢 私の履歴書 淀川長治

1998年4月10日1刷

 

明治42年4月10日生まれ。届けには4月1日生まれになっている。父56歳の時の子供だった。置き屋だったのでませていた。8歳から映画館に一人で入館していた。10歳の時にみた「ウーマン」が私を生涯映画と共に生き抜こうと固く決心させた作品だった。慶応と早稲田の予科受験のために上京したが、当時日大は無試験だったのでそこに入学したと知らせ、半年分の授業料を収めてもらい、大学に行かずに毎日5館映画を見て回った。映画酒井に7種のペンネームで毎月投稿した。編集部の手伝いを求むとの編集後記を見て面接に行くと、淀川さんと名前を知っていたので驚いた。編集部での仕事は幸せだったが、実家に帰らざるを得なくなった。姉が兵庫の名門の池長孟氏と別れる時の得た金で西洋美術品店を開いて手伝ったが商人になるつもりがないので面白くない。映画映画一本ヤリで生きることに決め、ユナイト大阪支店の宣伝部の仕事を始めた。戦後、アメリカ映画がまたみられると胸のつかえがとれた。22年暮れに映画之友に入り20年も務めた。26歳の時、神戸の船の中でチャップリンと話をし、再びチャップリンと再会した時に神戸の船の中で話をしたことを覚えていてくれ、平成9年にはチャップリンの長女と会った。日曜洋画劇場を受け持ち30年以上が経過した。私は映画から3つのスローガンを貰っている。1つ目は「苦労こい」、2つ目は「他人歓迎」、3つ目は「わたくしは、まだかつてきらいな人に、会ったことがない」。いいツラの人は、いい心を持って生まれたからだ。

天子蒙塵(二) 浅田次郎

2016年12月6日第1刷発行

 

帯封「北の曠野で一人抗う男は叫び続けた。我に山河を返せ。ついに日本の軍部もその存在を知るところとなった天体の具体『龍玉』は今、誰の手に。」「謀略渦巻く満州の底知れぬ闇。父・張作霖を爆殺された張学良に代わって、関東軍にひとり抗い続けた馬占山。1931年、彼は同じく張作霖側近だった張景恵からの説得を受け、一度は日本にまつろうが―。一方、満洲国建国を急ぐ日本と、大陸の動静を注視する国際連盟の狭間で、溥儀は深い孤独に沈み込んでいた。」

 

第二章 還我河山

溥儀は新国家の立場が皇帝でなく執政であることを承認した。土肥原大佐がいずれ帝政に移行し皇帝に推戴することを確約したからだ。副頭目と呼ばれた馬占山(秀芳)は黒竜江省長と軍政部総長の就任を張景恵から聞かされ、単身で多門師団長との面談に応じた。張作霖の軍事顧問として大陸にいた吉永将は満州事変の爆破事件で足を失い牛込陸軍省軍務局軍事課長永田鉄山の見舞いを受けた。満州事変は特務機関長の土肥原大佐が謀略の絵図を描き、板垣高級参謀と作戦主任参謀の石原中佐が実行したもので、彼らが越権と下剋上によって支配する関東軍満州の野に放たれた猛獣と化していたため、永田は情報や謀略を統轄する参謀本部第二部長に就任することで軍令上特務機関を制御できると考えていた。馬占山が独立国を承認しなかったのは国際連盟の調査団が満州に到着する時間稼ぎのためだった。馬占山から銃弾2発を食らった志津が黒竜江省公署の省庁室に向かうと、純白の壁に墨痕淋漓として「還我河山」(我に山河を返せ)の文字が書き列べられていた。取り調べでは匪賊の犯行と説明したが、現場に同行して人として馬占山を知りたがっていた酒井大尉にだけは本当の犯人は馬占山であることを打ち上げた。馬占山は満州国を去って北でふたたび日本との抵抗戦を開始した。吉永中佐は陸軍大学校教官として現場復帰した。永田は吉永に電話一本で呼び付けられる場所にいて貰いたいと告げ、日本を引きずり廻した関東軍の幕僚たちを切り離そうとした。武藤大将が関東軍司令官に就任した。下士官から関東軍司令官兼関東長官漢満州国駐在特命全権大使に登り詰めた武藤閣下を出迎えたのは溥儀の政府を輔弼する筆頭参議の張景恵だった。志津は特務機関員の任を解かれて武藤大将の専属通訳となった。武藤は溥儀との定例会見で前任者の約束を引き継ぐことを明言し、梁文秀は吉永に長文の手紙を書き、永田や吉永に期待を託した。

 

誰からも信頼される 三越伊勢丹の心づかい 株式会社三越伊勢丹ヒューマン・ソリューションズ著 著者代表:滝沢勝則

2017年2月24日第1刷発行

 

帯封「340年以上、親しまれてきた老舗百貫店のおもてなし 伝統と革新で『あなたから買いたい』と思われるコミュニケーション術」「三越伊勢丹は、お客さまにとって特別な場所であり続けたい。」

表紙裏「日本人にしかできないおもてなしの原点がここにある!日本初のデパートメントストア宣言を行った三越呉服店の日比翁助が1912年(明治45年)に著した『商売繁昌の秘訣』という書には、次のような一節が記されているのです。『御客が品物を買う以外の要求に応えよ』 使われている言葉や言い回しは古いかもしれませんが、書かれていることは今の時代に求められているものそのものだと言っても、過言ではありません。-本文より」

 

三越伊勢丹では2012年からすべての従業員を「スタイリスト」とし、特に優秀なスタイリストを毎年「エバーグリーン」として認定、表彰している。

・週1回、全ての従業員が朝礼で映像を見ながら「笑顔トレーニング」を実践し、「笑顔メーカー」を目指している。笑顔がもたらす医学的科学的効用を研究・実践している斉藤一郎先生に講演もしてもらった。

・アマゾンではハグできない。

・ここには書き切れない程、地道で目立たないけれども、日々、個々人のレベルでも、仲間のレベルでも、様々な努力・工夫をし、しかもそれを見える化することで、他の人の学びにつなげようとしている姿勢には共感が持てた。