世界の文学セレクション36 22チェーホフ かもめ/ワ“-ニャ伯父さん/三人姉妹/桜の園/他 神西清訳

1993年12月20日発行

 

1841年生まれ、1904年44歳没

「細部」の人 東京大学教授 川端香男里

トルストイチェーホフについて「全体として驚くべき印象」と言っているのは見事な評言である。簡潔に書かれた細部の背後に、書かれてはいないが的確に示唆されている事実なり情況というものがある。チェーホフは細部描写の効果をしっかりと計算している。

チェーホフも、トルストイの「人道主義」やドフトエフスキーの多分にロマンティックな人間観とは異なる理性的・懐疑的な、それゆえに幅の広い人生観照の態度を打ち出している。

 

解説 池田健太郎

チェーホフの作品は、サハリン島旅行の前後で、大きく変わる。以前、『小役人の死』などの短編を沢山書いて栄光を手に入れたが、思想、主義主張がなく、あるがままの人生を描いたことで攻撃され酷い憂鬱症に陥った。以後はトルストイ哲学から脱却し、あるがままの生活描写という以前の美学を一歩進めて、あるがままの生活を描きながら、あるべき生活を感じさせる、という新しい美学が生まれた。後期の作品『可愛い女』『犬を連れた奥さん』は芸術的な代表作として我が国の読者に愛読されて久しい。戯曲『カモメ』『ワ“-ニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』は、真摯に生きる、真摯な魂の一生を追い求めた作品と言えそう。

 

可愛い女

 自分というものを持たないオーレンカという女性。最初に「ティヴォリ」遊園の経営者のクーキンと結婚すると、オーレンカの話の内容は演劇論ばかり。夫が死ぬと、今度は材木置場の管理を任されていたプストワ“-ロフと再婚。すると今度は材木の話ばかり。再婚相手も死んでしまい、獣医と内縁関係になると、獣医同士の話に口をはさむようになり、窘められる。獣医は連隊について行ってしまい、オーレンカは一人ぼっちに。その時、彼女は自分の意見というものが何一つないことに気づく。やがて獣医と妻との間の10歳のサーシャを預かり養育するようになると、サーシャに献身的に尽くす。

そんなお話でした。解説によると、トルストイはこの『可愛い女』を絶賛したらしいのですが、何故?と思い、、ネットで調べてみると、作者の意図とは別に、トルストイは、オーレンカにエゴがなく自我を捨てて他人に貢献できる『聖』を感じたからだと。でも、チェーホフはそんなつもりでオーレンカを描いたと思えない。むしろ自分を持たないオーレンカを風刺的に描いているのだと思う。この作者と読者の解釈との乖離という問題は、深くて面白いですね。