昭和59年3月2日1版1刷
①はじめに
②厄年厄日の生まれ
③祖父・三世翫雀
④父・初代鴈次郎
⑤代役で初舞台
⑥「口上」に抗議
⑦扇雀襲名
⑧役に立った習字の稽古
⑨竹久夢二さんの思い出
⑩少年歌舞伎で勉強
⑪客席から怒鳴る父
⑫厳しかった師匠番の箱登羅
⑬人気の出た青年歌舞伎
⑭売れっ子芸者と結婚
⑮花街への出入り
⑯ソウルの恋
⑰初恋の思い出
⑱青年歌舞伎を退く
⑲父最後の舞台
⑳享年76歳の大往生
㉑生涯“鴈次郎”で通す
㉒長男を二代目扇雀に
㉓疎開先で母も死亡
㉔戦後、鴈次郎を襲名
㉕イヤ気重なり役者廃業
㉖映画界に入る
㉗いのちの続く限り舞台に
・明治35年2月17日大阪生まれ。父の初代中村鴈次郎は厳しい修行と努力の結果、私が生まれた明治35年にはひとかどの人気俳優となり、明治42年には上方歌舞伎の代表者になり、昭和10年に亡くなるまで王座は揺るがなかった。私は4歳で初舞台の代役をぶっつけ本番で舞台に出て、何も知らされていなかった父は驚いたが、父から認められ、医者にするつもりだった私を役者する決心をしてくれた。8歳で初代中村扇雀を襲名し、18歳で神戸松竹座で青年歌舞伎の旗揚げをした。扇雀が生まれた2年後に馬淵好一と言う子供が別にいた。ごひいき筋の商家のお嬢さんといい仲になってしまい、産んだ後、家内に知れ、黙認の形になった。父の座に10年程いたが、父が昭和10年に享年76歳亡くなると、祖父の名跡翫雀を襲名した。戦後、二代目鴈次郎を襲名。昭和26年には育ての親ともいうべき白井松次郎社長が亡くなられた後、上方歌舞伎は凋落の一途を辿った。それでも東京の大谷竹次郎社長、高橋歳雄専務が近松の曽根崎心中を復活して下さり、以来46年に上演回数500回を数えた。30年に大阪歌舞伎座の千秋楽に廃業したい旨松竹に申し入れ、舞台を降りた。代わりに映画俳優になる決意を固め、合計百本映画を撮った。40年に大映を退社し、再び松竹の舞台に戻る。中京区に引っ越した後、人間国宝、芸術院会員の栄誉を次々に頂いた。(昭和58年4月13日死去)