百人一首 名木田恵子

2012年12月20日第1刷発行 2013年11月30日第2刷発行

 

1 宇五倍士(うつぶし)色の序抄 藤原定家(1162-1241)

  百首の言霊を撰び揮毫を終えた藤原定家が星露に2度出逢った(1度目は季光(すえみつ)と名乗っていた幼少時代、2度目は揮毫を終えた時)というショートストーリが展開されている。

2 薄紅色の抄 小野小町

  在原業平から歌を贈られてもつれない返事をする小野小町を、幼馴染の小野貞樹が近くで優しくしてくれた。在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」は、この作者は小野小町にあてて詠んだ歌ではないかとの疑問を投げかけている。

3 萌黄色の抄 陽成院(869-949)

  清和天皇と藤原高子の間に第一皇子として誕生した貞明は、9歳の時、帝になるが、実権は藤原基経が握っていた。基経は貞明と時康親王の娘綏子(すいし)女王を妻合わそうとするが当初貞明は拒絶する。が、その後綏子の笛の音を気に入り恋心を抱くが結ばれることはなかった。そんな中詠んだのが「筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」

4 瑠璃色の抄 参議篁(たかむら)(802-852)

  異母兄弟の唯と小野篁は禁断の恋を抱き、唯は結ばれぬならと食を絶って死んでしまう。冥界から唯の声を聴いた篁が「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟」と詠んだ。

5 東雲色の抄 清少納言(966頃-没不詳)紫式部(973-没不詳)

  清少納言の下女に取り立てられた「えん」が藤原行成から優しい言葉を掛けられ、またある時は今度墨と筆を持ってきてやろうと言葉を掛けられた。ある時、臨時奉公として紫式部の屋敷で働いていたえんは、行成からおまえは少納言様の童ではないか、こんなところで何をと声を掛けられた瞬間、紫式部は口元を釣り上げた。不用意な声掛けをした行成だが、その後、えんを自分の屋敷で働くよう話を付けるというお話。

6 紫音色の抄 壬生忠見(生没不詳)

  村上天皇が催した天徳内裏歌合せで、壬生忠見は「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそうめしか」と詠んだが、「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」と詠んだ平兼盛の方が優れていると左大臣藤原実頼に判定されて打ちのめされる。

7 伽羅色の抄 和泉式部(975頃-没不詳)

  恋多き女性の代表格のような和泉式部の娘・小式部内侍は、藤原公成の子を出産した直後、和泉式部との悪かった母子関係を良好に復活させる。が、ほどなくして亡くなる。その時に和泉式部が詠んだのが「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢うこともがな」

8 聴(ゆるし)色の抄 式子内親王(生年不詳-1201)

後白河天皇の娘・式子内親王の前にある日現れた白羅は金の鯉に変化して空中を舞い水中に潜り神殿をめぐる。毎朝親王が見ていたのは、そして親王しか見えていなかったのは白羅のうろこだった。毎夜現れた白羅だったが、ある日突然現れなくなる。伊勢と賀茂神社の斎王になる。「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」これは内親王が詠んだのか白羅が詠んだのか。

9 真珠色の終抄 星露

  冒頭に出てくる星露の目線で最後のストーリーが展開される。

 

百人一首が身近に感じるようになる、そんな不思議な書物でした。