福沢諭吉 北康利

2007年12月28日第1版第1刷発行

 

 緒方洪庵適塾に入門したのが20歳。物理書と医学書の原書を筆写して会読するため必死に勉強する。夕方食事をして一寝入りし10時頃起きて白々と夜が明ける頃にまた一寝入りし、しばらくして朝風呂に入り帰って朝食を食べた後また勉強するというスタイルを続ける。22歳で塾頭にのぼり23歳で蘭学塾を始める。アメリカに渡る咸臨丸い乗り込み、平等で自由な国から多くのことを学ぶ。28歳で私塾(慶応義塾。義塾は「パブリック・スクール」を意識したもの。「半学半教」の理念や「先生」と呼ばずに「〇〇さん」「〇〇君」と呼ぶ習慣など慶應らしい美風が今も伝えられている)を創設し、『西洋事情』を執筆。32歳で再びアメリカに渡り散歩する大統領と出くわす(自由の理解を深める経験となる)。1868年7月4日官軍と彰義隊との戦いの最中に諭吉が常変わらず教室で講義をしていたという話は有名(ウェーランド『経済学原論』の講義の際、「世にいかなる変動があろうとも、慶應義塾が存在する限り、わが国に学問の命脈が絶えることはない」と毅然とした態度で言い切る。この日は今もウェーランド経済書講述記念日となっている)。我が国最初の盲学校の設立に尽力した古川周吉は慶應義塾の塾長だったが諭吉の反対を押し切って幕府を応援して牢屋に入るも、諭吉は古川の釈放に尽力しこれを実現する。只若くして亡くなる。しかしその子息を慶應義塾に学ばせて家族同然に扱う。一時18名になった熟生数も維新後に回復。塾長小幡篤次郎や塾生たちを食事に連れ出して議論する。チフスで死にそうになった諭吉を塾生たちは諭吉を助けるために献身的な介護に徹して窮地を脱する。明治13年資金集めが奏功せず諭吉は幹部に慶應義塾を閉じることを伝えるが、教師と塾生が立ち上がり、募金活動をし、あた教師たちは給料を3分の1にしてくれと言い出して存続を望み、経営の立て直しに成功する。また諭吉は同年、優秀な人達が集まり友情を温め議論し合うことによって互いに更に高める場として交詢社という我が国最初の社交クラブを創設。明治23年、文学、理財、法律学科の三科から成る私立初の総合大学が誕生。しかし法律科では創設以降10年間の年平均卒業者数はわずかに3名。明治大学明治26年度卒業生178名と比較すれば明らかなとおり再び存続の危機を迎える。そのため幼稚舎から大学までの一貫教育制度を確立し廃止の話が浮上することはなくなった。朝鮮人愛国者金玉均と出会うも、クデーターは失敗し清により暗殺される。直後、日清戦争勃発(1894年)。還暦を過ぎた頃から毎日4時半に起床して散歩を始めるが、いつしか散歩党と呼ばれるように人数が増えていく。午前中は居合抜き4時間続け健康に務めたが66歳で病死。