紫匂う《上》 葉室麟

2022年5月20日発行

 

主人公の澪は、黒島藩六万石の勘定方七十五石の三浦佳右衛門の三女として、十八歳の春、郡方五十石の萩蔵太に嫁いで十二年になる。嫁して三年後に長女由喜を、さらに二年ののちに嫡男小一郎を生した。澪は十七歳の折りにだだ一度だけ契りを交わした男がいた。父と同じ勘定方に出仕していた葛西笙平(しょうへい)で隣家の幼馴染だった。笙平の父仙五郎が急死すると、仙五郎の妻香は三回忌を待たず桑野清兵衛に再嫁した。笙平の妹ふたりは香の連れ子として桑野の家に迎え入れられたが、笙平だけは残って勘定方に勤めていた。澪は笙平をいとおしむ気持ちが募り、笙平も澪から話しかけられるに連れて元気を取り戻した。二人は夫婦になるつもりだった。晩秋の静かな夜、2人は結ばれた。ところが笙平は突然江戸詰めを命じられ、何も言わないまま江戸に赴いてしまった。澪は父から萩蔵太と見合いするよう言い渡された。母に相談すると、笙平は江戸藩邸側用人岡田五郎助の娘御志津と縁組話が進んでいるとの話を聞かされた。夫婦になるとの笙平の言葉は嘘だった。萩は心極流剣術の道場主から10年に一人の逸物と言われる腕前を持つ寡黙で温厚な人物だった。澪の婚儀が決まった後、笙平は返事をしていなかった縁談話に返事をしたと聞いた澪は笙平の気持ちを直に確かめなかったことを悔いたが、そのまま婚礼の日を迎えた。二人が結ばれたのは澪が眠れぬ夜が続いて心身共に疲れた澪が癒しを求めるように身を委ねた7日目のことだった。蔵太は凡庸にしか見えなかった。澪は、蔵太との間に由喜と小一郎というふたりの子に恵まれ、蔵太の両親も丁寧に接してくれ、12年を日々穏やかに過ごした。澪の実母仁江は未生流の華道の手並みを買われて藩主の生母芳光院が歌会を催す山荘・雫亭の花を活け、仁江が腰痛で行けないときは澪が代役を務め、雫亭の管理を任された。ある日、蔵太を門前で送り出した直後、笙平に似た武士を見かけた。その日の夜、蔵太から江戸詰めの笙平がお咎めを受け、国許に帰ってくると聞き、澪は動揺した。澪は実家を訪れ、兄誠一郎から不祥事の内容を聞いた。江戸藩邸で賄賂を受け取り、出入りの呉服商の女房を手籠めにしたということだったが、濡れ衣ではないかとも兄から聞いた。黒瀬家老に出入りの商人との間での黒い噂があり、家老に疎まれて無実の咎めを受けたかもしれなかった。笙平が国許へ送り返される途中、護送の者の隙をついて逃走したとのことだった。雫亭の掃除に出掛けると笙平は途中の道で澪を待っていた。雫亭で笙平から、無実であり、岡田の娘とは離縁し、今は桑野を頼るつもりであることを聞いた。そして雫亭に匿い、岡田の娘は黒瀬家老と密通を働いていたことを聞き、桑野も当てにならないことを聞くと、もはや芳光院に助けを願い出るしかないと覚悟を決めた。藩内で黒瀬家老に物が言えるのは芳光院しかいなかった。芳光院は黒瀬家老の黒い噂を耳にしており、笙平に会うことを約束してくれた。雫亭に戻って笙平を連れて行こうとすると、笙平は置手紙を残して雫亭から姿を消していた。そこに桑野が現れ、笙平の命が狙われていることを知り、澪は笙平の跡を追って鋤沢の湯治宿に向かい、蔵太には今晩は帰れないことを告げる文を送った。湯治宿で笙平と再会し、よりを戻したいと求められたが、気持ちの整理がつかずに澪は応じることができず、そのまま朝を迎えた。そして澪は蔵太が種をまいて育てていた紫草をまだ目にしていないことに気付き、蔵太が咲かせようとしている紫草の白い小さな花を見たいと思うと、ようやく自らの胸のうちがわかり、心の中で笙平に謝った。澪はつけられていた。早朝、宿改めが行われ、絶対絶命のピンチに蔵太が現れた。そして桑名が澪と笙平の噂を口にしても蔵太は全て澪の父から聞いていたと平然と答え、部屋に2人して戻った。部屋に入ると、蔵太は笙平に挨拶した。芳光院は笙平に会うには雫亭しかないと蔵太に書状で伝え、蔵太はそれを報せると共に道案内をかって出た。蔵太は笙平を芳光様に会わせることが忠義に叶うと言い、手助けを始めた。