遊びと日本人 多田道太郎

2006年5月20日発行

 

Ⅰ 日本人

・日本人にとり風呂はレジャーの基本的なものだが、ヨーロッパではローマは別としてイギリス・フランスでは入浴の楽しみは殆どない。風呂嫌いは民族の宗教的慣習がその底に潜んでいたように思われる。風呂の機嫌は仏教渡来以後であるが、そのほかに肌を清めることを好むミソギ、ススギの流れも仏教的伝統の中に混入して日本人の風呂好きを形成したのではないかと思う。これが風呂の「聖」の世界での起源だが、「俗」の世界に入ると、季節の移りかわりを肌に感じるための風呂という意味を持つようになる。更に江戸になると「遊」としての風呂、銭湯が成立する。遊びは根底においてゆとりという一面がある。私は「する」遊びよりも「なる」遊びの方がより根源的だと思っている。パチンコをする、ボウリングをするより、風呂につかってのんびりふわっとなる方がより根源的というものだろう。

・レジャーとははやっているものだが、流行りのレジャーは、新聞などがムードやブームを特集し、レジャーの社会意識は踏み固められていく。

・パチンコについてロジェ・カイヨウ氏と著者の見解は大きく異なる。カイヨウ氏は騒音と旗艦的動作でもって人が麻痺状態になるのがパチンコの哀れむべき魅力だという。著者はパチンコは日本人が急激にのびて行く工業社会の中に自分を同化させるための一つの手段、文化に順応するという側面を持っており、そういう側面を見逃してマヒとか大衆の愚鈍化と解釈することは私にはできないと述べる。

・見るスポーツのうち、野球見物人のエトスは、広大なフィールドにおける流動的秩序の把握である。両者相乱れてではなく、9つの点が一つの構図をなし見物人の視野に収まり、かうかつ流動的で力学的な躍動感に満ち、機微で弾力的な組織観を把握する眺望は見物人にのみ許された特権である。

・フランス語には、「ちょっと遊びにいらっしゃい」に相当する言葉がない。カイヨウ氏は「混沌」から「計算」への移り変わりを歴史の進歩と考えているが、遊びの本質は「進歩」の側にあるのではなく、「混沌」の中にあると思う。混沌の根が断ち切られてしまうと遊びは遊びでなく、オリンピックなどとして精根涸らして私たちの眼前にあらわれてくるだろう。

Ⅱ 文明

・子どもの遊びにこそ、人類の願望、芸術の根源がある。かごめかごめは柳田国男によれば呪詛そのもの。どうして子供だけが呪詛まがいの遊びに興じるのだろうか。鬼ごっこを移行儀礼の模倣、押しくらまんじゅうは子供が祭りを模倣しコピーを作り、ままごとは成女式、成人儀礼の零落したもの、あやとりは文明の圧力と無縁に遊びが伝播した例、ブランコは脱魂。凧揚げが天空指向性を欠く日本で流行を見たのは謎である。