愛する源氏物語〈下〉 俵万智

2011年5月20日発行

 

光源氏の事実上の正妻だった紫の上が、光源氏が女三の宮を正妻として迎い入れることになった時に詠んだ歌と、源氏の返歌。

  目に近く移ればかはる世の中を行く末とほくたのみけるかな  紫の上

  変わりゆく男女の仲とは知りながら行く末長くと信じていたよ  (万智訳)

 

  命こそ絶ゆとも絶えめさだめなき世のつねならぬなかのちぎりを  光源氏

  命なら絶える日もくる定めなき世の常ならぬ我々の愛  (万智訳)

 

・夕霧と柏木は大親友で、女三の宮に想いを寄せる柏木は女三の宮の欠点が見えず、夕霧には見えている。その対比が面白い。鶯は光源氏、桜は女三の宮、みやま木は紫の上。

  いかなれば花に木づたふ鶯の桜をわきてねぐらとはせぬ  柏木

  あの男は浮気な鶯 なにゆえに桜をねぐらと定めないのか  (万智訳)

 

  みやま木にねぐらさだむるはこ鳥もいかでか花の色にあくべき  夕霧

  みやま木にねぐら定めるその鳥も桜の色に飽きはしません  (万智訳)

 

・禁忌を犯して女三の宮と関係を結んだ柏木は、光源氏にバレて自分の死を悟り、女三の宮とのやりとりをした。

  いまはとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ  柏木

  我が死後の煙はなおもくすぶって絶えぬ思いをこの世に残す  (万智訳)

 

  立ちそひて消えやしなましうきことを思ひみだるる煙くらべに  女三の宮

  誰が一番つらい思いをしているか煙となってくらべましょうか  (万智訳)

 

光源氏の息子夕霧が未亡人落ち葉の宮を口説いたときに拒否されたことに対しての夕霧の返歌

  おほかたはわれ濡れ衣をきせずともくちにし袖の名やはかくるる

  大丈夫ボクがいなくてもどっちみち君の名前は汚れてるから

 

光源氏の最愛の女性、紫の上は魅力的。しかし光源氏から手ひどい裏切りを受けている。重病になり、娘として育ててきた明石の中宮が見舞いに訪れた時の光源氏の姿を見て、いよいよの時はどんなに嘆くかと心苦しく思う。

おくと見るほどぞはかなきともすれば風にみだるる萩のうは露 紫の上

はかなさは私の命と似ています風に乱れる萩の上露 (万智訳)

 

ややもせば消えをあらそふ露の世におくれ先立つほど経ずもがな 光源氏

ともすればはかない露のような世にあなたに後れて生きたくはない(万智訳)

 

・死を目前にしていた紫の上の歌

  惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしかな  紫の上

  惜しくないこの身とはいえ燃え尽きる薪のような悲しさもある (万智訳)

 

・紫の上が死んだ翌年、光源氏52歳の1年間が綴られた「幻」の巻を読むと、筆者は、与謝野鉄幹を亡くした後の与謝野晶子の歌を思い出す。

  青空のもとに楓のひろがりて君亡き夏の初まれるかな  与謝野晶子

  物語御法の巻ののちなるはただ一とせのまぼろしの巻  与謝野晶子

 

・「君亡き春」のはじまるの一首

  わが宿は花もてはやす人もなしなににか春のたづね来つらん  光源氏

  もう花を楽しむ人もいないのにどうして春はやってくるのか  (万智訳)

 

  うき世にはゆき消えなんと思ひつつ思ひの外になほぞほどふる  光源氏

  つらき世に別れゆきたく思えども思いがけなく積もる歳月  (万智訳)

 

・「君亡き二月」の梅の歌

  植ゑて見し花のあるじもなき宿に知らず顔にて来ゐる鶯  光源氏

  この梅を植えたあなたもいないのに知らん顔して来る鶯よ  (万智訳)

 

・「君亡き三月」の春の庭の独詠歌

  今はとてあらしやはてん亡き人の心とどめし春の垣根を  光源氏

  あきらめて荒れさせるのか亡き人が心をこめた春の垣根を  (万智訳)

 

・「君亡き五月」の五月雨のころの歌

  なき人をしのぶる宵のむら雨に濡れてや来つる山ほととぎす  光源氏

  亡き人をしのんで流す涙雨 来てくれたのか山ほととぎす  (万智訳)

 

・「君亡き六月」の歌

  つれづれとわが泣きくらす夏の日をかごとがましき虫の声かな  光源氏

  泣いて泣いて我が泣き暮らす夏の日に真似をするかのような虫たち  (万智訳)

 

・「君亡き八月」の歌

 人恋ふるわが身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり  光源氏

  君を恋う命は残り少なくて涙はまだまだ残り多くて  (万智訳)

 

・「君亡き九月九日」の一首

  もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな  光源氏

  二人して長寿を祈った菊なのに一人の袂に秋の朝露  (万智訳)

 

・「君亡き神無月(十月)」

  大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂の行く方たづねよ  光源氏

  夢にさえ見えぬあなたの魂のゆくえを教えておくれまぼろし  (万智訳)

 

・十二月

  かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ  光源氏

  集めても見るかいもなき手紙たちあの人と同じ煙となれよ  (万智訳)

・大晦日の歌

  もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる  光源氏

  もの思いに月日の過ぎるのも知らず今年も我も今日で終わりか  (万智訳)

  

光源氏と女三の宮との間に生まれた薫は、実は父親は柏木。今上帝と明石の中宮との間に生れた匂宮の2人の貴公子が宇治十帖の男性主人公

 薫は、大君の妹、中の君を匂宮とくっつけてしまえば、大君が自分に靡くと考え、匂宮を氏に連れ出し、匂宮は首尾よく中の君をものにしてしまった。大君は薫に対し、匂君の手引きをするなんてひどいと思う。

  かたがたにくらす心を思ひやれ人やりならぬ道にまどはば  大君

  あれこれと悩む私を気づかって! あなたの恋はあなたのせいよ  (万智訳)

 

・夫の匂宮が妻である中の君に宛てた歌。中の君が薫と関係を持っているのではと疑う。

  また人に馴れける袖の移り香をわが身にしめてうらみつるかな  匂宮

  俺じゃない奴の匂いがする君の匂いが俺に移る悔しさ  (万智訳)

 

  みなれぬる中の衣とたのみしをかばかりにてやかけはなれけん  中の君

  目の前のわたくしよりも目に見えぬ香りのほうを信じる君よ  (万智訳)

 

・匂宮が、夕霧の娘六の君との縁談を承諾して、傷心の中の君に贈った歌と、亡くなった姉君の朝顔以上に吐かない存在だと嘆いた中の宮の歌

  よそへてぞ見るべかりける白露のちぎりかおきし朝顔の花  薫

  白露の姉のかわりと約束を交わしたはずの朝顔の花  (万智訳)

 

  消えぬまに枯れぬる花のはかなさにおくるる露はなほぞまされる  中の君

  露よりもはかなく枯れた花の姉よりもはかなき私と思う  (万智訳)

 

東直子の解説にも、「考えてみれば『源氏物語』に出てくる和歌は、引用歌以外は、紫式部が登場人物になりかわって詠んだもの」「それぞれの性格を踏まえて「技」を効かせていることに成功している和歌の数々には、圧倒されるしかない」とあった。