民法と50年 我妻栄 「民法解釈学の建設者鳩山秀夫先生」切

書斎の窓2号所収(昭和28年)
鳩山先生の論著においては、「名文句」がでてくる前に、形式論理の犀利な分析と緻密な組立てとがある。いいかえると、先生の論著は、寸分のくるいもない論理的な構成が基盤をなし、その基盤の上で、あくまでこれを厳守しながら、右のような名文句が縦横に駆使されるところに特色がある。

穂積重遠先生は、民法解釈学の進歩をリレー・レースに譬えながら、「民法学は嘗て行き詰まったと言われた。しかしながら行き詰まったのではなかった。富井・梅・土方を初走者とする継走選手川名・石坂・鳩山等の健脚が遂に民法典解釈の高く嶮しき峠を登り切って、更に踏襲すべき千山万岳の前途に重畳たるを望んだのである」といわれたことがある。

私は、これについて、かつて、つぎのようにいったことがある。
「この民法典の論理的解明は、民法解釈学の基礎ではあるが、決してその全部ではない。蓋し、この仕事の遂行をもって民法解釈学の能事畢(おわ)れりとなすときは、裁判は、法条を大前提とし事実を小前提とし、形式論理の推久によって判決を導き出す一種の自動販売機と化し、その事実が社会の生きた一事象として有する意義が無視せられ、又その判決が裁判として有すべき倫理的な価値が失わしめられることになる。法律学は、法律生活の現実から遊離した『世間知らず』と化石し、 『概念法学』の棹名(かいな)をもって嘲笑せられるものに堕する。川名・石坂・鳩山三教授によって登り切られた峠から更に展望せられた『重畳たる千山万岳』は、実にこの『概念法学』の谷に堕することなく、民法解釈学をして、社会の生きたる事象に対する倫理思想豊かな規律者としての使命を達せしめる為に、踏破すべき俊峰に他ならない」