会社の品格 小笹芳央

実は、どんな言葉を会社の中で使うのかは、会社の品格を大きく左右します。品格のある会社は、社会で使われる言葉にも品格があるものなのです。言葉というのは、個人個人の意識の中に、知らず知らずのうちに深く浸透していきます。単なる社内で流通する言葉というだけにとどまらず、それはいずれ社員の実際の行動に大きな影響を与えるのです。

成熟モードの会社が持つ4つの症状
 ①顧客視点欠落症ーロングセラーの商品・サービスを持っている会社が陥りがち
 ②当事者不在症候群ー誰も責任を負わず、前進より現状維持を望む、危険な症状
 ③既決感蔓延症ー「どうせ・・」「所詮・・」が蔓延し始めたら危険
 ④セクショナリズム横行症ー「官僚的」「お役所仕事」は、品格のなさが露呈した結果

コミュニケーションの結着点という重要な役割を担う上司
 3人の組織では、人と人との「間」がいくつあるかというと、3本です。では、10人の組織になったらどうなるか。「間」をつなうお互いの線の数は、10×(10-1)÷2=45本です。つまり、3人の組織から10人の組織になったときに、人数は約3倍にあるだけですが、お互いをつなぐ「間」の本数でいうと、15倍に膨らんでしまうということです。・・それだけ「複雑性の高い」集団になったということですが。これが100人になると、どうなるか。100×(100-1)÷2=2950。人数では10人の10倍ですが、お互いをつなぐ「間」の本数は10倍どころではない。比較的にその関係性は複雑化してくるのです。・・組織の統制を図って業務をキチンと遂行させるために、この本数を減らすことを考えました。それが、チーム制です。例えば100人の組織の「間」の本数を減らすために、10人のチームを10個作る。その中の誰かをリーダーに任命する。ひとつのチームは10人の「間」ですから、45本しかありません。これが10個で450本の「間」になる。・・リーダ会という上位組織が必要になりあす。10人のリーダーの組織ですから、「間」は45本。つまり、チーム内の45本×10チーム=450本とリーダー会の45本を合わせ495本です。・・複雑性が増大していた「間」の本数を、495本に縮減することができるわけです。結果として、みんなの仕事がやりやすくなる。指示、命令がきちんと統一できる。組織として環境適応や内部統合をしやすくなる。これが、もともとチーム制、および管理職という上司の根源的な機能なのです。上司というのは、人員の増加によって関係性が複雑になる協働体において、複雑性を減縮させるために、コミュニケーションの結節点という役割を担っている。これこそ上司の定義です。チームのリーダーとして、左右のチームの情報、あるいは上層部の情報をきちんとかみ砕いてチームのメンバーに伝える。自分達の情報を左右のチームに伝える。あるいは、下の情報をきちんと上に伝えていく。そうしたコミュニケーションの結節点、ターミナルとも言うべき位置づけにある。それが、上司の存在意義なのです。

課長と部長とでは、見ている「視界」が異なることを認識せよ
 上司になるということは、視界を一段上に上げる、ということなのです。・・大事なことは、状況によって、必要な視界を設定し、視界を合わせて議論すること。そうでないと、議論は対立したまま、前に進まなくなってしまうからです。
 秒針を動かしている人もいれば、分針を動かしている人もいる。一年単位の針を動かしている人もいる。上司として大事なことは、各々の役割を尊重しつつ、各々の視界を意識すること。そしてそのときどきにおいて、視界を合わせて議論することを考えてみること。そして自分が、どの視点で見るのが適正なのか、常に把握しておくことです。

当たり前のことが、とても平易な言葉が書かれている。そして会社の品格=社員の品格=それこそが社会の品格であり、国家の品格につながるというテーマで書かれているのには納得がいく。

スカラムーシュ ラファエル・サバチニ 加島祥造訳

スカラムーシュ(道化)演じるアンドレ・ルイ・モロー(弁護士)が、フランス革命の前夜、親友の命を奪ったダジール侯爵に対し、復讐を遂げようと、その雄弁の才能を最大限に発揮しながら、ある時は喜劇の団員に混ざって道化を演じ、ある時は剣の道場で剣士の腕を磨き、そしてある時は第3階級の議員として、ダジール侯爵の前に現れ、決闘を挑む。その中で、育ての父親との親子の愛情、共に育てられた幼馴染のアリーヌとの恋心の行く末、更に劇団の看板女優クリメーヌとの関係、そしてダジール侯爵とクリメーヌの関係がもつれていき、最後に育ての親ケルカディウ公の従妹でありフランス王室に仕える貴族のブルゥガステル伯爵夫人の存在と、ダジール侯爵との関係が全て明るみにされ、一種のどんでん返しで終わるという結末。2度目の読了。1度目よりも味わい深く読むことができた。

むらさきのスカートの女 今村夏子

第161回芥川賞受賞作
文藝春秋で読みました。今村さんの作品は初めて読みました。むらさきのスカートの女をいつもみつめ続ける、黄色のカーディガンの女の視線で、むらさきのスカートの女がいわゆる変人から、普通に仕事を始めるようになり、そのうち上司と不倫関係に落ちていって、そしたら、どんでん返しが待っていたという話の落ちなんですが、どうしてこれが芥川賞を受賞したんだろう?って思います。芥川賞の選考基準とは素朴にどういうものなのか教えてほしいです。

世界2019年9月 失うだけの日米FTA 鈴木宜弘

1958年生まれ。東京大学大学院農学生命科学研究科教授。専門は農業経済学。
堤未果さんの「日本が売られる」を思い出しました。それよりも更に現実は着実に目に見えないところで悪化しているという警告を発している。トランプの「7月の日本の選挙の後まで待つことになる。大きな数字を期待している」と表明して、まさに1か月が経とうとしている。「インド、中南米、中国、ロシアなどは、国をあげてグローバル種子企業を排除し始めた。世界的な逆風の中、従順な日本が世界で唯一・最大の餌食にされつつある」と警告する論者の視点は的確ではないだろうか。

FACT FULNESS ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング著 上杉周作、関美和訳

10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣
帯封「「世界100部超の大ベストセラー待望の日本上陸!」「あなたの”常識”は20年前で止まっている!?」「名作中の名作。世界を正しく見るために欠かせない一冊だ」ビル・ゲイツ大絶賛、大卒の希望者全員にプレゼントまでした名著」

確かに面白い。その一言に尽きる。個人的には本年のベストワンです。

目次
 はじめに
 イントロダクション
第1章 分断本能「世界は分断されている」という思い込み
第2章 ネガティブ本能「世界はどんどん悪くなっている」という思い込み
第3章 直線本能「世界の人口はひたすら増え続ける」という思い込み
第4章 恐怖本能 危険でないことを、恐ろしいと考えてしまう思い込み
第5章 過大視本能 「目の前の数字がいちばん重要だ」という思い込み
  「これからは、ひとりあたりの二酸化炭素排出量について、語り合うことにしましょうぞ」・・そもそも、国全体の二酸化炭素排出量を見ているのが間違っている。「肥満の問題は、アメリカよりも中国のほうが深刻だ。中国人全員の体重を合計したら、アメリカ人全員の体重の合計より重いからだ」・・
第6章 パターン化本能 「ひとつの例がすべてに当てはまる」という思い込み
第7章 宿命本能 「すべてはあらかじめ決まっている」という思い込み
   「いまのイラン女性ひとりあたりの子供の数はアメリカやスウェーデンより少ない。そのことを、西洋の人はどれだけ知っているだろうか?」
第8章 単純化本能 「世界はひとつの切り口で理解できる」という思い込み
   「むしろ、自分が肩入れしている考え方の弱みをいつも探した方がいい。これは自分の専門分野でも当てはまる。自分の意見に合わない新しい情報や、専門以外の情報を進んで仕入れよう」
第9章 犯人探し本能 「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み
第10章 焦り本能 「いますぐ手を打たないと大変なことになる」という思い込み
第11章 ファクトフルネスを実践しよう

民法と50年 我妻栄 「法の研究に一生を捧げて」

法律相談所雑誌12号所収(昭和37年)

民法改正後に、私法学会が全国的調査をしたことがある、相続のあった家庭を戸別訪問して、あなた方はどういうふうに財産を分けたかと聞く、すると、実は分けていないということがわかる。法律の規定が変わっただけで社会意識はすぐに変革されるものではない、ということが指摘されていた。
✳今回の相続法改正により、どのように変わったかについて、実態調査をしようという動きはあるのだろうか?

法律には社会を改造する力はない、法律は保守性を保つ、その理由は、法の特質とされる強行性と画一性のためだと常識的にはいうことができる。社会を変えようと考えるならば法律の研究に一生を捧げるべきではない。現実の社会として、法律がなければ秩序が維持できない、強行性と画一性をもっている法律を、やむをえないnecessaryだといってもいいが、社会の存在を前提としている以上はこれをすてるわけにはいかない、このことに思い至ったときに、一生を捧げても悔いなき価値はあるだろうと悟った。こうしたいわば縁の下の力持ちとしての、法律としての使命を守るということで甘んじてゆける人だけが、法律の研究に一生を捧げればよい。

それからもう一つ、法律は常識を援護していく、常識がそのまま通るとき、法律家はもっとも喜ぶべきです。常識が安全に通って法律が少しも前面に出てくる必要がない、法律家はこのときにこそ法律の存在意義を実現したと喜ぶべきです。

✳なかなか味わい深いなあと思いながら、読みました。

民法と50年 我妻栄 「民法解釈学の建設者鳩山秀夫先生」切

書斎の窓2号所収(昭和28年)
鳩山先生の論著においては、「名文句」がでてくる前に、形式論理の犀利な分析と緻密な組立てとがある。いいかえると、先生の論著は、寸分のくるいもない論理的な構成が基盤をなし、その基盤の上で、あくまでこれを厳守しながら、右のような名文句が縦横に駆使されるところに特色がある。

穂積重遠先生は、民法解釈学の進歩をリレー・レースに譬えながら、「民法学は嘗て行き詰まったと言われた。しかしながら行き詰まったのではなかった。富井・梅・土方を初走者とする継走選手川名・石坂・鳩山等の健脚が遂に民法典解釈の高く嶮しき峠を登り切って、更に踏襲すべき千山万岳の前途に重畳たるを望んだのである」といわれたことがある。

私は、これについて、かつて、つぎのようにいったことがある。
「この民法典の論理的解明は、民法解釈学の基礎ではあるが、決してその全部ではない。蓋し、この仕事の遂行をもって民法解釈学の能事畢(おわ)れりとなすときは、裁判は、法条を大前提とし事実を小前提とし、形式論理の推久によって判決を導き出す一種の自動販売機と化し、その事実が社会の生きた一事象として有する意義が無視せられ、又その判決が裁判として有すべき倫理的な価値が失わしめられることになる。法律学は、法律生活の現実から遊離した『世間知らず』と化石し、 『概念法学』の棹名(かいな)をもって嘲笑せられるものに堕する。川名・石坂・鳩山三教授によって登り切られた峠から更に展望せられた『重畳たる千山万岳』は、実にこの『概念法学』の谷に堕することなく、民法解釈学をして、社会の生きたる事象に対する倫理思想豊かな規律者としての使命を達せしめる為に、踏破すべき俊峰に他ならない」