生きているかぎり 私の履歴書 新藤兼人

2008年5月13日第1刷

 

・明治45年4月22日生まれ。父は他人の保証人をしたのがきっかけで破産した。8歳から13歳の間に山も田畑も家屋敷も失い、たった一つの蔵だけ残ってそこに追い込まれて暮らした。広島の親戚の家に預けられた時に観た映画「盤獄の一生」の影響を受けて、映画監督になろうと決めた。広島、尾道、練馬の江古田で、貧乏暮らしをしながら、映画の仕事をしたり、シナリオを書いたりした。奥多摩の小河内村がダムで水没する悲劇を「土を失った百姓」と題するシナリオとして映画評論に応募すると一等に当選した。賞金百円だった。溝口健二が大泉にやって来て美術監督水谷浩の下で助手についた。溝口に内弟子となりシナリオを書いて渡すと、これはシナリオではなくストーリーと言われ、強いショックを受けた。古本屋で近代劇全集43巻を借り、読み出すと、自分にはドラマが欠けていることに気付いた。内田吐夢のシナリオを書くよう言われて夢を見ている気分だった。だが内田は変貌していた。映画は中止になった。戦後、「待帆荘」(後に「待ちぼうけの女」と改題)を書いた。尾道の復員兵たちを描いた。監督の吉村公三郎とコンビを組み、木下恵介監督と組んでシナリオを次々と書いた。松竹を出て吉村と独立した。乙羽信子の「愛妻物語」は成功した。「原爆の子」で監督を務めた。乙羽信子が自ら大映に話をつけて「原爆の子」に出演した。大ヒットした。「裸の島」がモスクワ国際映画祭でグランプリを得た。3万5千ドルを得た。音楽家林光には「第五福竜丸」「裸の島」以来すべての作品を作曲してもらっている。乙羽信子の「午後の遺言状」は大ヒットとなった。乙羽と27年間男女の関係を続け、妻と離婚して4年後妻が亡くなった翌年に結婚した。シナリオライターとして238本書き、監督として47本。カメラマン黒田清己の第1回作品は「裸の島」。以来「竹山ひとり旅」まですべて彼のカメラで撮った。95歳だが「石内尋常高等小学校 花は散れども」を撮ろうと思う。