杉本博司自伝 影老日記 杉本博司

2022年3月25日発行

 

帯封「忍び寄る老いの影に伝うべき言の葉を探す 世の真を写さんと一生をかけし人の回想録 日本経済新聞コラム『私の履歴書』増補版 杉本博司自伝」「私は私の職業が何かと問われると、相手が理解しやすい職種を選んで言うことにしている。パリオペラ座の人達には演出家であり、文楽の人々には杉本文楽の座主である。美術館の先生方には私は古美術研究家であり、美術館を設計する建築家でもある。シェフの方々には料理本も出す料理研究家で、NHKの方々には『青天を衝け』の書家だ。現代美術コレクターの方々には写真家であるらしい。杉本博司が自ら語る傑作の人生」

 

・父落語家三遊亭歌幸の影響を受けていることを晩年に気付かされた。後年美術作家となった私の作品には、みな落ちがある。昭和35年から公立の小学校から私立の立教中学に通い始めた。立教高校、立教大学経済学部を経て、カリフォルニアのアートスクールに飛び級で3年からの入学が許可され、ビューカメラの取り扱いと現像処方に習熟した。アンセル・アダムスをメンバーに定めた。彼の名言に「ネガはスコアでありプリントは演奏だ」がある。アートスクール卒業後、プロの写真家の助手をしながらニューヨークの街を探索した。当時ニューヨークには日本人アーティストで溢れ、篠原有司男をはじめとするネオダダ組が多かった。ニューヨーク州のアーティスト助成金制度にアフリカのサバンナとオーストラリアの草原の写真を送ると合格し助成金を得た。MoMAに毎週作品を持参していると、シャカフスキー氏と面談できた。私の作品を買ってくれた。大本教教祖の出口なおや古典文学大系第1期全66巻など読んだ。古美術1点買うと数十冊の本を買った。古美術は趣味に切り替え、作家活動に専念した。伝統工法と古い素材を積極的に使い、古いものが最も新しいという逆説を名前に込めて、建築設計事務所「新素材研究所」を発足させた。2009年、高松宮記念世界文化賞が舞い込んだ。2014年、パリで展覧会が企画された。33の文明滅亡のシナリオを書き、33の廃墟を作り上げ展示した。ヴェルサイユ宮殿で毎年一人選ばれる大個展の2018年の開催の大命が私に下った。30万坪の敷地に極小で対抗することにし、トリアノン宮殿の大きな池に2畳の茶室を浮かべた。