三島海雲(カルピス食品工業社長) 私の履歴書 経済人10

昭和55年10月2日1版1刷 昭和59年2月23日1版7刷

 

①大阪の貧乏寺に生まれ   

②血書で恋文を書いた初恋の思い出

③文学寮入学と杉村楚人寇との出会い

④若人のあこがれ“中国大陸”に渡る

⑤東文学舎で土倉五郎を知り、日華洋行設立

⑥蒙古への銃の売り込みに苦労する

⑦蒙古での牧羊事業-辛亥革命で挫折

⑧天津で裸一貫から再出発

⑨妻の病気で帰国し、再び無一文からカルピス誕生まで

⑩“初恋の味”大いに売り出す

⑪二度も経営権を奪われた長い苦難時代

⑫社会への恩返し-三島海雲記念財団

 

・幕末の葛城上人の筆跡集にある文句「制心一処、無事不弁」を心掛けて事業をやってきた。

・明治11年7月2日大阪生まれ。現在89歳。生家は西本願寺派の教学寺で13歳で得度した。西本願寺文学寮を卒業後、山口市の開道中学の英語教師になった。仏教大学に移ったが、卒業せず25歳で北京に渡った。東文学舎で土倉五郎と親しくなった。日華洋行(雑貨店)を経営し、大隈重信伯から勧められたとおり蒙古で緬羊を飼育改良した。清国が滅亡し中国での事業はご破算となった。38歳で帰国し、醍醐味合資会社を設立。醍醐味は味も栄養も満点だったが、大量生産ができなかった。そのカスの脱脂乳の利用法を考え、こうしてカルピスが生まれた。もっともカルピス誕生の前に乳酸菌入りのキャラメルの製造販売に着手した。土倉竜次郎が紹介してくれた宝田石油専務の津下紋太郎がラクトー株式会社を拵えてくれ、会長が津下、専務が安藤守男、取締役が三島という布陣で乳酸菌入りキャラメルに取り組んだが、成功しなかった。脱脂乳を乳酸発酵させ、カルシウムと佐藤を加えた飲料を完成させ、これがカルピスとなった。カルはカルシウムから、ピスはサンスクリットから採った。乳・酪・生蘇・熟酥・醍醐味を五味と言い、醍醐味はサンピルマンダ、熟酥をサンピルというので、本当はカルピルなのだが、歯切れが悪いのでカルピスにした。大震災直後、飲料水を配ることを思い立ち、カルピスの原液を全て出させた。避難所で歓迎を受け、大阪毎日の記者がこれを取り上げ、結果として全国に知られることになった。“初恋の味”は今宮中学で国漢の教師の発案である。昭和初期の不況、戦中、戦後の統制時代に酸っぱい時代が続いたが、昭和31年に設立したピルマン株式会社の後、再建策が軌道に乗り、年間百数十億の売上を見た。ローヤルゼリーの分析を東大応用微生物研究所の教授飯塚広博士に依頼すると、他に見られない複雑なビタミン群があることがわかり、三島食品工業の仕事の一つとして現在は百三十群(1群2万匹)の蜜蜂を飼い養蜂事業を始めた。現在はピータンと粟の品種改良と普及に着手している(昭和45年カルピス食品工業社長を退く。49年12月28日歿)