私の履歴書 西條八十(詩人) 日本経済新聞社 文化人2

昭和58年10月5日1版1刷 昭和58年11月7日1版2刷

 

①夭折した姉に文芸的感化受ける

②初恋に破れて奈良をさまよう

早大と東大へ同時に入学

④処女作“石階”を早稲田文学

⑤株式暴落、二日で三十万失う

⑥フランス語で苦労した教師時代

⑦パリ留学、すべての詩人と交遊

中山晋平とコンビで新民謡作る

⑨事変中にヒットした“支那の夜”

⑩募集ビラ見て作った“予科練の歌”

⑪私と母につくした妻の生涯

 

・東京牛込で生れた。早稲田中学に入学したことが一生の運命を決定した。牛込教会に幼い頃から通い、牧師になりたかったが、文学者志望の熱が高まり、15歳でロングフェロオの「雨の日」を訳した。早稲田大学の文学科の予科に入ったが、同級生の英語力のレベルが低く2か月ほどで辞めた。早稲田の文科に20歳で入り直し、東大の国文学部選科生となった。兄の放蕩が祟り、家の財産は散逸した。早大を卒業し、三千円の資本で株をやり30万迄設けたが、1日で暴落して無価値になった。株で一敗地に塗れた後、早稲田英文学部で講師を委嘱され、ポピュラーな詩人となった。その後、恩師の吉江先生がパリから帰朝されると、英文学講師から仏文学講師へと転身した。関東大震災の翌年、早大の留学生として渡仏した。帰国後、流行歌作家の副業がうまくいき、レコード会社の専属にされ、教授と作詞家の二重生活を送った。ビクターからコロンビアに移ったのは作曲家より作詞家の方が待遇が悪かったからだった。23年間早稲田の教壇に立ったが、学徒出陣の悲痛な光景は胸に焼き付いた。教え子たちへの気持ちが数多くの軍歌を書かせた。戦後、著作権協会会長の職に就任した。その後、監督官庁の文部省から協会の再編成を命じられ、昭和32年日本音楽著作権協会長になった。協会の全定款を改正し、穏健な成長を示しつつある。(昭和45年8月22日死去)