初恋 ツルゲーネフ 小沼文彦訳

昭和27年1月30日初版発行 昭和41年3月30日31刷 昭和49年11月30日改版22版発行

 

白髪混じりのヴラディーミル・ペトローヴィチは、自身が経験した月並みとは言えない初恋の話をノートに書きつけ、それを友人たちに読んで聞かせることにした。ノートには次のようなことが書かれていた。

父は冷淡で非常に美しい男だった。母は父より10歳も年上で嫉妬焼きだった。十六歳の時、両親と共に別荘で過ごした最初の数週間の出来事は忘れることができない。別荘の右手の離れの貸家に、どこかの家族が引越してきた。ザセーキナ公爵夫人と共に美しい娘が引越してきた。夫人は母に何分のご庇護を頂きたいと言ってきた。私は母の言伝てを伝えるために隣家を訪れると、夫人とズィナイーダという21歳の令嬢が現れ、彼女の部屋に通された。彼女は聡明で愛らしかった。彼女の近づきになれて彼は幸福だった。そこへ彼女に子猫をプレゼントする男が現れた。私は長居をしたので帰ったが、この男が羨ましかった。夫人と令嬢が我が家を訪れた。父も彼女を時々ちらりと見ていた。帰り際に令嬢から家に呼ばれて行くと、5人もの男が犇めいていた。私は男達に交じってゲームに興じた。甘美な気持ちに浸った私はこれが恋というものなのだと気がついた。私の煩悩はその日から始まった。一日中彼女のことばかり考えていた。彼女の回りの男達もみな彼女に首ったけだった。私は勉強も本を読むのもやめてしまい、毎日のように彼女の家に通った。ある時、彼女が顔を赤らめるのを見て、彼女が恋を知ったのだと気付き、私の懊悩が始まった。彼女の意中の人物は誰か。ライバルから彼女を見張れと言われて、彼は夜の暗闇に紛れて彼女の家を見張った。現れたのは私の父だった。父を告発する匿名の手紙が届き、母は父の不実を詰り、町へ移ると言い出した。私は最後の別れも告げないで彼女と別れることなど出来ず、離れへ出かけた。彼女に命の続く限り愛し続けると伝えると、燃えるようなキスを授かり、町へ引き上げた。心の痛手は徐々に癒えていった。ある日、彼は馬に乗って父の後をついて行った。父を見失ったが、再び父を見つけると彼女と会っている姿を発見した。父は鞭を振り上げて彼女の腕に蚯蚓腫れの真っ赤に腫れあがった傷口に唇を押し当てた。大学に入り、半年後父が急逝した。父は私宛に「女性の愛を恐れよ。その幸福を、その毒を恐れよ」と手紙に書きかけていた。大学卒業後、彼女はもしばらくは失恋の痛みを感じ続けた。4年後、私は彼女が結婚したことを知り、2週間後に訪ねると彼女はお産のために数日前に急死していた。数日後、同じ建物に住む老婆の臨終に立ち会った。喜びを知らず訪れた死を、老婆は最後の力が尽きるまで十字を切った姿を見た時、私は初めて彼女のために、父のためにも、そして自分のために、神に祈りを捧げる気持ちになった。