昭和59年1月10日1版1刷
①隨縁
②おばあちゃん子
③小学校時代
④港町神戸
⑤予備校
⑥徴兵検査合格
⑦鈴木勲太郎先生
⑧失意
⑨宮永東山
⑪星岡窯
⑫古志野
⑬志野窯発見
⑭公表
⑮発掘ブーム
⑯立志
⑰独立
⑱初窯
⑲トルエドソン夫人
⑳生活
㉑魯山人追放
㉒初個展
㉓販路
㉔戦時下
㉕個展の成功
㉖芸の機微
㉗三つの喜び
・明治27年3月17日岐阜県生まれ。多治見尋常高等小学校、高等科を卒業後、京都の粟田焼を扱う能勢商店に勤め、木塚商店を辞めた後、予備校に入学した。名古屋で陶磁の貿易を扱う愛岐商会に勤めた後、26歳で独立した。多治見に戻り、京都の宮永東山さんが経営する陶磁器工場で窯場の工場長を引き受け、焼き物を学んだ。宮永さんはかつて農商務省の役人で、岡倉天心の下で日本美術院の庶務をし、天心門下の下村観山、横山大観、菱田春草など画家に親しい者が多かった。大観や玉堂に描いてもらった品を焼き上げて大阪の三越に並べて窮地を脱したこともあった。書家で篆刻家で食通の北大路魯山人とは長い付き合いとなった。小山冨士夫さんとは一生の付き合いとなった。星岡窯芸研究所に移る。志野窯発見後、魯山人に星岡窯を辞すと告げ、スウェーデン人トルエドソン夫人に救いの手を差し伸べられた。昭和30年私の個展が成功するのを見届けて故国に帰った。星岡茶寮の前身は美食倶楽部だが、魯山人と中村竹四郎はパートナーだったが、もともと二人は気質が異なり私の調停努力も空しく決裂して終わった。重要無形文化財技術保持者の一人として認定された。志野、瀬戸黒の技術によった。