昭和40年6月30日発行 平成16年5月15日64刷改組 平成21年4月5日72刷
裏表紙「『松本清張傑作短編集』は、現代小説、歴史小説、長編小説各2巻の全6巻よりなる。本書は現代小説の第1集。身体が不自由で孤独な一青年が小倉在住時代の鴎外を追究する芥川賞受賞作『或る「小倉日記」伝』。旧石器時代の人骨を発見し、その研究に生涯をかけた中学教師が業績を横取りされる「石の骨」。功なり名とげた大学教授が悪女にひっかかって学界から顛落する「笛壺」。他に9編を収める。」
或る「小倉日記」伝
巻末の平野謙の解説によると、主人公田上耕作は実在の人である、だがモデル小説と趣きを異にしている、作者の強い自己投影がある、田上は頭脳明敏だが風貌は白痴のようで宿命的アンバランスを克服できないところに悲劇性があり、田上が鴎外の小倉時代の足跡を調査する業半ばに逝った報われざる生涯を、自己の運命と重ね合わせていると解説する。
あらすじは、主人公田上耕作は生来の身障者でありながら、鴎外の小倉滞在中の軌跡を、当時関係者を探し訪ねて明らかにする作業に明け暮れるも、戦下で病が重くなり志半ばで亡くなる。後日「小倉日記」が発見されるというもの。冷静に見れば、何のためにどんなメリットが田上にあったのか、田上のやったことに何か意味があったのかと問わずにいられない。でもそれでも突き動かされて田上の遺したものには何かしら意味がある、とも思いたくなる。そんな性を抱えながら人は誰しも生きているというようなことを言いたいのかもしれない。
菊枕―ぬい女略歴
解説によると、女主人公は小倉在住の女流俳人杉田久女をモデルとしている。
あらすじは、お茶の水高女卒業のぬいは三岡圭助と結ばれ二児をもうけたが、美術学校卒業なのに野心と無縁の夫に失望し軽蔑を覚える。ぬいは俳句を始め評判となり、当代随一の宮萩栴堂主宰『コスモス』に載り名を知られるようになった。家事も育児も圭助がやる一方、ぬいは勝気の念が強く、俳人に迎えられなかった。栴堂が脳溢血をしたのを知り、栴堂が死ねば自分の俳句生命もないと思い込み、菊枕を作りわざわざ持参したが、栴堂から通り一片の礼があるだけだった。教師の妻にすぎぬという焦燥感と『コスモス』に載らなくなったことから狂い出し、圭助に連れられて精神病院に入る。圭助が面会に行くと、狂った姿を見せたが、圭助はようやく自分の下に還ったと涙を流した。
断碑
解説によると、主人公は実在の考古学者森本六爾をモデルとしている。
あらすじは、今日の新しい日本考古学の転機になったとも言われる木村卓治の最初の指導者は京大学の杉山道雄助教授だったが、次第に疎まれるようになり、次に東京帝室博物館歴史課長の高崎健二から指導を受けた。高崎は卓治の調査ノートに感心し、博物館の助手にしようとしたが、中卒の学歴のために博物館入りの予定が取消され、卓治は東京高等師範学校に就職した。このことを後で知った卓治は高崎を恨んだ。発表場所を失った卓治は官学に牙を剝き、“中央考古学会”を組織して機関誌を出し、既成の考古学者へ挑戦するべく、新しい報告書を掲載して高崎や杉山に挑んだ。高崎、杉山との関係を断ち、博物館の佐藤卯一郎からも出入りを遠慮するよう申し渡された。卓治はことごとく高崎と杉山の仕事に食い入り悪態をついた。彼は不眠症になった。フランス洋行後、卓治は弥生式土器と水稲を研究し独創の主題を掴んだが、妻は彼から移された病で亡くなり、2か月後、卓治も34歳で亡くなった。
石の骨
あらすじは、己は30年前、地方の中学校に奉職して弥生式土器や銅鐸等を研究していたが、洪積層の断崖をなす海岸の砂浜から旧象の臼歯の化石破片を手にし、更にその崖の土砂崩れから人間の左側の腰骨片を発見した。化石人類の遺骸だった。旧石器時代は大陸や欧州にはあるが、日本にはまだ認められないというのが、学界の定説だったため、その説が覆されるかもわからないと思い手足が慄えた。己はその化石骨を持って上京し鑑定を請うためT大人類学教室の岡崎博士を訪ね、一ヵ月過ぎに化石が送り返されたが、同封の手紙には「旧石器時代の人骨とは認定しがたく候」とあった。書かれていた。否定の理由を数年後に知った。人類学界の権威の竹中博士が岡崎博士を圧迫したからだった。後に今の大学の講師となったが、日本旧石器時代説は冷笑された。己の日本旧石器時代の推論は「独断すぎる」と言われた。戦争が始まりで空襲で腰骨の化石標本は焼けて灰になった。戦後、T大の水田博士から手紙がきて、岡崎博士が採った腰骨化石の石膏型で研究すると「洪積世人類の遺骨と認めます。ついては学界に発表して私が命名します」とのことだった。その後、腰骨化石の出た海岸で発掘が行われたが、一物もめぼしい遺物は出なかった。日本旧石器時代は否定されようとしているが、己はゲラの校正刷りで“化石人骨が転落したものでも、波に打ち上げられたものでもなく、堆積層が崩れ落ちそれによりこの世の空気にさらされたものであることを学者的良心をもって断じて嘘はないと申し上げておく。それでも認められなければ容れられる時期まで耐えるほかはない”と結んだ。