昭和59年5月2日1版1刷
①船大工の家に生まれる
②将来を思い朝鮮へ渡る
③学費九百円を目標に貯蓄
④独学で早大商科にパス
⑤久原鉱業から経済記者へ
⑥外遊し片山潜と知り合う
⑦東洋経済編集長時代
⑧退社して評論生活にはいる
⑨太平洋調査会会議に出席
⑩近衛に協力、戦時経済を立案
⑪終戦前後、極秘で戦後対策研究
⑫家庭生活をかえりみて
・明治24年1月山口生まれ。生まれつき左足に障害があった。但し戸籍上明治27年9月生まれになっている。父は和船の小造船業をしていたが、斜陽産業化したため、甲種商業入学を断念し、小学校卒業後は、大阪の袋物問屋徳岡本店に丁稚奉公に出た。1年で朝鮮行きを決意し、二田商会(塩田商店)に押しかけ入店し、その後朝鮮に渡った。それでも独学で勉強を続け、大学の商科予科にパスした。もっとも中学校の全過程を飛び越したため、欠陥だらけだった。やっていないものを自分で補修し全力で勉強して進級試験では首席となった。4年半の学生生活を親から援助を受けずに自給できた。卒業後は久原鉱業会社(現在の日本鉱業、日立製作所の前身)に入社したが、最初から格付けされたことから実力で相撲の取れる人生を選ぼうと決心し、東洋経済新報社に入社し経済記者に転身した。収入は半減した。社長兼主幹が三浦鉄太郎氏、編集長が石原湛山氏のコンビで、毎回の編集会議の論議を通しモノの見方、考え方、ポイントの掴み方等、評論家としての大切なセンスを教えられた。経済理論を勉強している余裕はなく、時の生きた問題と取り組み、これを研究し評論する努力のうちに生きた真の経済理論を身につけようとした。その成果を「金融の基礎理論」(最近「動態金融論」と改題)に著した。処女出版「経済学の実際知識」(大正12年初版)は意外に売れ、文官高等試験受験生が読者層になり、昭和13年に物価中央委員会が設けられ、私が登用された。戦後の欧米経済視察の機会に恵まれ、帰国後は社会運動の陣営の中で活動したが、共産党の諸君と激しく論争し、反左翼的社会運動に巻き込まれ、日本農民党の会長に祭り上げられた。後に社会運動家や政治家は私の肌に合わないことを痛感し足を洗う。編集長になった後、東洋経済のバトンを渡す積りなら今渡して欲しい、無理なら日本主義経済の現状分析と歴史的研究を中心に研究生活に入ると告げ、大正15年に退社した。昭和7年に高橋経済研究所を発足させ、終戦直後まで存続した。昭和11年の2・26事件後、昭和研究所が誕生し、世話役をやった。昭和17年国策研究会が大東亜共栄圏に処する研究に広く人材を動員して着手することになり、常任理事、調査部長となった。敗戦が避けられない情勢となった頃、敗戦後に処する施策研究をするための資金集めを大蔵省で承認して欲しいと願い出、形式は勝負なしの引分けという建前で研究を開始した。尤も無条件降伏となりこの研究は役に立たなかった。戦後財団法人日本経済研究所を創立し理事長兼所長となるが、追放され、政策に参与・批判することが厳禁とされた。追放を機会に、日本経済の歴史的研究に没頭し、26年に追放解除された後は景気、株式予測記事の檜舞台に立った。評論生活か経済史研究かの選択を迫られ、経済発達史の研究にこれからの人生を捧げようと決意した矢先、32年の経済異変が起こり、経済評論界の仕事をしばらく続けた。34年限りで評論陣から退く。(昭和52年2月10日死去)