エマソン選集1 自然について 斎藤光/訳

昭和35年9月25日初版発行 昭和45年12月10日5刷発行

 

アメリカの学者

 1837年8月31日、ケンブリッジにおいて、ファイ・ベーク・カッパ学会のためになされた講演

 訳者あとがきから要約すると、ヨーロッパ文化からの独立を結論とする講演冒頭の文化的独立宣言として有名。エマソンは学者の訓練と義務について論じており、義務とは自己信頼のことである。自然、読書、行動による訓練が論じられている。書物に読まれずあくまでも自己信頼に立つ自主的な読み方をすすめる。行動の訓練はエマソンに経験主義者がひそんでいることが明確にされた。ウィリアム・ジェイムズジョン・デューイに影響し、アメリカのプラグマチズムへと発展。後半では学者ばかりでなくすべての人びとが自己信頼により個人主義に立たなければならないと説く。ソローの『市民の反抗』、ホイットマンの『民主主義の展望』とともに『アメリカの学者』はアメリカ民主主義を解明した古典とみなされている。

 もっとも本文は結構難しい論調で書かれているという印象を受けた。

 

神学部講演

 ハーバード大学神学部最上級生のため1838年7月15日日曜日夜、ケンブリッジにおいてなされた講演

 訳者あとがきによると、内容は3部にわかれ、第1部は、エマソン自身「一般的見解」と称しているが、彼が宗教の本質という「道徳心」についてのべている・・第2部では、この道徳心の観点から、教会の現状を大胆に批判したため、神学部の教授たちは激昂してしまった。第3部では結論として、教会の堕落を救うべき方法を説いた。

 ・・今後久しいあいだ、エマソンは母校において講演する機会を与えられないようになってしまった。

 以下に、本文をいくつか拾い読みしてみる。

「私のうちに神を示すものが、私を力づける。私の外に神を示すものは、私を、いぼや瘤のように、小さなものとする」

「何かを与えられることは、低い恩恵である。自分で何かをする力を与えられることは、高い恩恵である」

「人間の道徳性のうちにこそ、崇高な心が宿り、驚きと力との源泉があるのだ。全世界の喜びであり、思想を親しみのある豊かなものにすることのできる唯一のものであるこの『法則』、これが茶化され、軽視され、はやし立てられ、嘲られ、これについては一言も、はっきりと述べられていないとは、何とひどい仕打ちではないか。この『法則』を失った説教壇は、その理性を失い、ただ暗中模索するだけである。この心の訓練に欠けているために、社会の魂は病み、信仰を失っている」

「堕落した形式を救うものは、一も魂、二も魂、永遠に魂である」

 

百人一首 名木田恵子

2012年12月20日第1刷発行 2013年11月30日第2刷発行

 

1 宇五倍士(うつぶし)色の序抄 藤原定家(1162-1241)

  百首の言霊を撰び揮毫を終えた藤原定家が星露に2度出逢った(1度目は季光(すえみつ)と名乗っていた幼少時代、2度目は揮毫を終えた時)というショートストーリが展開されている。

2 薄紅色の抄 小野小町

  在原業平から歌を贈られてもつれない返事をする小野小町を、幼馴染の小野貞樹が近くで優しくしてくれた。在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」は、この作者は小野小町にあてて詠んだ歌ではないかとの疑問を投げかけている。

3 萌黄色の抄 陽成院(869-949)

  清和天皇と藤原高子の間に第一皇子として誕生した貞明は、9歳の時、帝になるが、実権は藤原基経が握っていた。基経は貞明と時康親王の娘綏子(すいし)女王を妻合わそうとするが当初貞明は拒絶する。が、その後綏子の笛の音を気に入り恋心を抱くが結ばれることはなかった。そんな中詠んだのが「筑波嶺の みねより落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる」

4 瑠璃色の抄 参議篁(たかむら)(802-852)

  異母兄弟の唯と小野篁は禁断の恋を抱き、唯は結ばれぬならと食を絶って死んでしまう。冥界から唯の声を聴いた篁が「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人のつり舟」と詠んだ。

5 東雲色の抄 清少納言(966頃-没不詳)紫式部(973-没不詳)

  清少納言の下女に取り立てられた「えん」が藤原行成から優しい言葉を掛けられ、またある時は今度墨と筆を持ってきてやろうと言葉を掛けられた。ある時、臨時奉公として紫式部の屋敷で働いていたえんは、行成からおまえは少納言様の童ではないか、こんなところで何をと声を掛けられた瞬間、紫式部は口元を釣り上げた。不用意な声掛けをした行成だが、その後、えんを自分の屋敷で働くよう話を付けるというお話。

6 紫音色の抄 壬生忠見(生没不詳)

  村上天皇が催した天徳内裏歌合せで、壬生忠見は「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそうめしか」と詠んだが、「忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで」と詠んだ平兼盛の方が優れていると左大臣藤原実頼に判定されて打ちのめされる。

7 伽羅色の抄 和泉式部(975頃-没不詳)

  恋多き女性の代表格のような和泉式部の娘・小式部内侍は、藤原公成の子を出産した直後、和泉式部との悪かった母子関係を良好に復活させる。が、ほどなくして亡くなる。その時に和泉式部が詠んだのが「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に いまひとたびの 逢うこともがな」

8 聴(ゆるし)色の抄 式子内親王(生年不詳-1201)

後白河天皇の娘・式子内親王の前にある日現れた白羅は金の鯉に変化して空中を舞い水中に潜り神殿をめぐる。毎朝親王が見ていたのは、そして親王しか見えていなかったのは白羅のうろこだった。毎夜現れた白羅だったが、ある日突然現れなくなる。伊勢と賀茂神社の斎王になる。「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」これは内親王が詠んだのか白羅が詠んだのか。

9 真珠色の終抄 星露

  冒頭に出てくる星露の目線で最後のストーリーが展開される。

 

百人一首が身近に感じるようになる、そんな不思議な書物でした。

 

土と内臓 微生物がつくる世界  デイビッド・モントコメリー+アン・ビクレー  片岡夏実 訳

2016 年 11 月 18 日初版発行

 表紙裏に「マイクロバイオーム研究で明かされた人体での驚くべき微生物の働きと、土壌での微生物相の働きによる豊かな農業とガーデニング。農地と私たちの体内にすむ微生物への、医学、農学による無差別攻撃を疑い、地質学者と生物学者が、微生物研究と人間の歴史を振り返る。微生物理解によって食べ物、医療と私たち自身の体への見方が変わる本」と。期待通りの本でした。土壌(植物の根)にも人の腸にも微生物が存在し、単に吸収するだけでなく、そこに存在する微生物が栄養素を作り出し、それをも吸収することで生命が維持されている神秘・不可思議。そこに地質学者と生物学者がコラボして一般向けに分かり易く解説してくれている本があったというのをこの本で初めて知りました。土壌と腸との類似性に言及した本があるのでは?と思っていたら、この本に巡り合えて幸運でした。多くの人にこの本を薦めたいと思います。

 

細井平洲の経営学~『嚶鳴館遺草』に学ぶ 童門冬二

2015年10月4日 第1版第1刷

 

 名君の呼び声高い上杉鷹山米沢藩主)が座右のテキストとして活用した細井平洲の『嚶鳴館遺草』は西郷隆盛吉田松陰も感動させた。「修身・斉家・治国・平天下」を奨励する。全六巻「巻之一 野芹 上中下 巻之二 上は民の表、数学、政の大体、農官の心得 巻之三 もりかがみ、対人之問忠、建学大意 巻之四 菅子牧民国字解 巻之五 つらつらぶみ 巻之六 花木の花、本末、対某候問書 附録  與樺世儀手簡」から成る。

 二宮金次郎の「報徳仕法」(分度・勤労・推譲)は「大学」の影響だけでなく、平洲の「遺草」からも影響を受けているのではないかと筆者は考えている。また細井平洲に影響を与えたのは中江藤樹ではないかと考えている。平洲の親友の学者秋山玉山は細川重賢(しげかた)に仕え、藩校時習館を創立する。

 著者は細井平洲を実学者として捉え、江戸アカデミズムの高踏的な場所に身を置かず常に庶民や農民を主体とする生活者の中で生き、底辺で生きる人々に“恕と忍びざるの心”をもって接し、その苦楽を自分のこととして受け止め、民の苦楽をひとごとでなくわがこととした。

 細井平洲の本は私が今まで知らなかっただけで結構色々あるようなので勉強してみたい。

落窪物語 越水利江子

2012年12月20日第1刷発行 2014年6月30日第2刷発行

 

 日本版シンデレラ姫といえるような物語ですね。でも平安中期の源氏物語に先立って落窪物語が書かれているわけだから、シンデレラ姫より落窪物語の方が先にあったわけですよね。そもそも落窪物語を読んだ事がなかったので、これ自体、新鮮な感じでした。

 美しい落窪姫(邸の外れで床の低い落ちくぼんだ部屋があてがわれたのでこの名がつけられる)が継母北の方からさんざんいじめられるも、侍女あこぎが機転を利かせ、またその恋人帯刀の惟成(これなり)の協力も得て、右近の少将藤原道頼から見染められて結ばれるというハッピーエンドなお話です。

極夜行 角幡唯介

2018 年 2 月 10 日第1刷


 シオラパルク(グリーンランド)からツンドラ地帯にかけて犬橇探検を実行する作者のノンフィンション作品。既存のシステムから飛び出ることが探検だと考える筆者は、太陽が半年間昇らない、夜がひたすら続く環境に身を置き、そこで見る初めて太陽がどういうものかを実体験したいと考えて犬橇探検を実行する。数年にわたる入念な準備の末、実行に移すが、実行に移した直後、極夜病にかかる。最終章で太陽を見た時に、これを体験したくてこの長い長い極夜の中で生活し続けた作者をそこまで突き動かしたのは果たして何だったのだろうか。凡人過ぎる私にはなかなか理解し難い。
 ちなみにこの作品で著者は冒頭に妻の初出産の場面を描く。最初何でだろうと思ったが、赤子がお腹から世に出てくる場面と極夜が続いて初めて太陽を見る場面との類似性に気付いたからだと著者はいう。何となく分かるような気もするが、でも良く分からない。極夜の経験もなければ出産に立ち合った経験もなく、もとより出産時の記憶(初めてこの世に出てきた時の記憶)があるわけもないのだがら当然なのではあるが。それにしても既存のシステムの外に飛び出してみてその領域で果たして何が見えるのかという着想はマトリクスの一連の映画を思い起こさせる。
 角幡さんはツアンポー探検を描いた作品『空白の五マイル』で 10 年に開高健ノンフィンション賞、11 年に大宅壮一ノンフィンション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞したノンフィクション作家。次作『雪男は向こうからやって来た』は 12 年に新田次郎文学賞受賞、『アグル―カの行方』は 13 年に講談社ノンフィンション賞受賞、『探検家の日々本本』で15 年に毎日出版文学賞書評賞受賞と凄いキャリアを築いている。分野は違うが、チャンレンジ精神に溢れているところは見習いたい。

 

恍惚の人 有吉佐和子

昭和57年5月25日発行 平成15年2月25日52刷改版

 表紙裏に「文明の発達と医学の進歩がもたらした人口の高齢化は、やがて恐るべき老人国が出現することを予告している。老いて永生きすることは果たして幸福か? 日本の老人福祉政策はこれでよいのか?―老齢化するについて幼児退行現象をおこす人間の生命の不可思議を凝視し、誰もがいずれは直面しなければならない《老い》の問題に光を投げかける。空前の大ベストセラーとなった書下ろし長編。」と。昭和57年の時点で認知症(かつて老人性痴呆といわれた)を抱える家族の大変さを浮き彫りにする力作だ。190万部以上も売れたらしい。
 ご飯を食べても食べたことを忘れてお腹が減ったと訴え、ご飯をあげないと食べさせてくれないと泣き出す。外出すると行方が分からなくなり110番して警察に捜索してもらわなければならなくなる、下の世話がある、風呂に入れて体(下半身を含め)を洗ってあげなければいけない、子供の顔が分からなくなる、子供が近づくと不審者が近づいたと大騒ぎする、夜中に起きてトイレに連れて行かなくてはいけない、何度も夜中に起こされる、子どもの顔が分からないから連れ添いが一人で面倒を見なければいけない、妄想が出現して家の中を這いつくばる、妻が亡くなったことが分からない、遂には亡くなった妻の遺骨を納めた骨壺の中から遺骨を取り出してむしゃむしゃと食べだす等々。
 認知症老人を抱えた家族、中でも老人の面倒を見なければならない嫁の目線で一貫して描かれている。同居する息子は認知症になった父親から忘れられた存在のため存在感が全くない。老人の孫も大学受験を控えて少しは協力するが、全面的に妻が面倒を見ている。法律事務所の事務職をしながら、要は仕事と介護と家事を何とか必死にこなそうとするが、嫁本人が壊れかけていく。そんなストーリー展開。最後には風呂でおぼれたことがきっかけで肺炎となり体力がガクンと落ち言葉もほとんど出なくなった老人が離れに住み、そこに若い学生夫婦が安い家賃で住んで変わりに老人の面倒をアルバイトで見てくれることになり、妻の負担がぐっと軽減される。だが、最後の最後で、老人は汚物を畳に塗りたくる。嫁は異常な臭気に目が覚め、たわしでゴシゴシ畳三枚を洗い続ける。妻からすると、本当に大変。夫からすると大変なことを妻に一手に引き受けてもらっているのでもはや家庭崩壊寸前。その妻も、いつかは自分たちが老後を迎えるのでそのことに絶えず戦々恐々としている。恐らく当時の読者には相当なインパクトをもってこの怖さを与えたのだと思う。
 ところで、この老人の主観というか、老人が主体となって何を考え何を感じているのか、そこが全く分からないのは、作者の意図的な構図なのだろうか?そこは全体を通して少し気になったところだ。