雑種文化 ー日本の小さな希望ー 加藤周一 

昭和49年9月15日第1刷発行

昭和59年4月30日第18刷発行

 

日本人の外国観

 日蓮にとっては、将軍の権威も、天皇の権威も、彼の仏のまえでは一切無に等しかった。日蓮の仏の超越性は、道元の禅の超越性に匹敵する。そういう立場からは、外国への「一辺倒」も、日本を絶対化する「国家至上主義」も、論理上決して起こりえないはずである。しかし13世紀以降、仏教のこういう超越性は急速に失われていった。一方、徳川時代儒家が、儒教原理をどこまで超越的なものとしてうけとったかは、疑問である。

 

松山の印象

 西洋の社会は単に民主主義的であったのではなく、同時に基督教的であった。その社会が今日ある様に運転しているのも、単に民主主義の原理が生きているからではなく、民主主義の原理では間に合わぬ領域に、基督教または基督教がヘレニズムとむすびついて生みだした価値の体系があるからである。極端に図式的ないい方をすれば、民主主義は社会の枠であり、枠だけがあって、中身のない社会というものは、実際具体的には存在しないといえるだろう。その中身がたとえ西欧で基督教であったとすれば、日本の奉献時代には、儒教であった。日本に今民主主義の枠をつくろうとするときに、その中身をわれわれはどうするつもりであるか。おそらく日本の民主主義の根本問題はそこにあるだろう。単に民主的勢力と反民主的な反動勢力との対立関係だけが問題なのではない。