1955年5月30日第1刷発行 2000年10月18日初版第1刷発行 2013年11月5日初版第12刷発行
● イワンのばか
こちらは3人の兄弟のお話。
長兄を通して軍事政権のもろさを。次兄を通して資本主義のもろさを。
頭が悪いイワンを通して平和主義の尊さと労働の大切さを。
悪魔も、イワンには勝てずに退散。頭を使うだけでは幸福にはならず、
手を働かすことの必要を訴えています。
- 人は何で生きるのか
天使が羽を失い、人間界に降りてきて、ある靴職人に拾われたお話。
家に帰って最初邪見にされた妻に晩御飯を差し出されて、にっこり微笑む。
数年後、頑丈な男性が靴を作るよう注文を受けた時に、再びにっこり微笑む。
そして、更に時が経過して、天使が最初に命を奪った母親から誕生した双子の女の子が他人の乳で成長した姿に遭遇したことで、三度にっこり微笑む。
3度目の微笑みの時に靴職人がにっこりした理由を問い、初めて天使だったことを打ち明け、神様から、①人間のなかには何があるか、②人間に許されていないのは何か、③人は何で生きるか、分かったら天に帰るのを許されたと告白。そして、3度のにっこり微笑んだのは、順番に3つのことが分かったから、として、人間には愛があり、人間に入用なものは知ることを許されていない、③神が愛であるから、全ての人間が生きているという趣旨のことを語り、天上に戻っていくというお話。
③はキリスト教の信仰を持っていないと、理解が難しいような気がします。
- 人には多くの土地がいるか
欲を出せば切りがない。結局、欲をコントロールしないと、我が身を滅ぼすというお話。この欲をコントロールするのが一番難しい。これは科学や道徳を教えるだけでは見につかない。痛い目を見ないと覚えないというが、それでは手遅れ。これは今日の環境破壊すら予言しているようにも読めます。
- 愛のあるところには神もいる
くつ屋のマルティンが老人から勧められて聖書を読んだ後、夢か幻か、声が聞こえる。「あすは往来を見ていなさい、わたしがくるから」と。
最初は老人が。家に招き入れて暖かいお茶を振る舞う。次に赤ん坊を出した母親が。家に招き入れてキャベツ汁を振る舞い、上着のない母親に上着をあげる。更に少年が物売りのおばあさんからリンゴを盗み、おばあさんから髪を掴まれたところを救い出し、おばあさんに放してやりなさい、許してやりなさいと。少年にはあやまりな、もう二度とするんじゃないよと。最後は少年がおばあさんが袋を担ぎ上げようとしたときに「持ってってあげるよ」と仲良く歩き出していく。そして最後に、老人が、母親が、おばあさんと少年が次々に出て来て、あれはわたしだった、と。聖書の言葉が最後に引用されて、おしまい。
キリスト教というか、神の説く言葉を信じ、行動に移す。どんな宗教でも、それが一番大事だということを教えてくれているような気がします。
- ふたりの老人
巡礼に出かけた二人の老人のうち、1人は巡礼そのものは実現し、もう1人は巡礼の途中で寄り道した先で困っている人を助けて旅費を使ってしまい、巡礼をあきらめて帰ってきてしまう。しかし果たしてどちらが信仰に篤いのか、神の御心にかなうのかというお話。これもキリスト教ならではの問題設定のお話のような気がします。
- 小さい話
ふたりの兄弟と黄金
道端に落ちていたお金を沢山の金貨を見つけた弟のヨアンは、金貨を見て逃げ出す。
兄のアファナーシイは金貨を拾い、困った人達のために使う。みなしごの家を建てたり、病人や体の不自由な人のための家を建てたり、こじきのために家を建てたり。更に残った金貨は老人たちに渡して貧しい人々に分け与え、人々は兄をほめたたえた。
天使は兄に厳しく、「ここから去れ。おまえには弟と暮らす値打ちはない」と告げる。
兄は使い道を説明するとも、天使は「おまえを迷わせるためにあの黄金をおいた悪魔が、おまえにそのことばを、語らせているのだ」と。
兄は自分のしたさまざまなことが神さまのためでなかったことをさとり、涙を流して悔やむ。すると、天使は道をあけてくれて、兄は黄金によってではなく、労働によってのみ神と世の人とにつかえることができるのだということをさとり、弟と一緒にくらすことになった。
うーん。哲学的な問題なんでしょうね。現代的な価値観からすれば、兄の行った行為をここまで酷く言うのもどうかなと。でも労働=自分の手で働くことこそが神からの仕事だとなると、働かずに得た財貨で幸せを実現することは神の意思に反するということになるんでしょう。