オリンピックを呼んだ男 田畑政治 近藤隆夫

2019年2月 初版第1刷発行

 

競泳は1896年第1回オリンピック(ギリシャ)以来、今も継続されている数少ない競技の一つ(他は、陸上、体操、自転車、フェンシング)。第2回(フランス)、第3回(セントルイス)、第4回(ロンドン)と続き、1912年第5回(ストックホルム)で日本は初めてオリンピックに出場(陸上で三島弥彦、マラソン金栗四三)。第6回(ベルリン)は中止、第7回(アントワープ)で日本人初メダリスト(男子テニスダブルスで熊谷一弥と柏尾誠一郎・銀、熊谷はシングルでも銀)。この時、競泳で日本人として初めて内田正練まさよし)と斎藤兼吉が出場(結果は惨敗)。

 

17歳で競技を続けられなくなった田畑政治は指導役にまわり、朝日新聞社入社後も浜名の後輩のために奮闘。第8回(パリ)では競泳で日本勢はメダルにあと一歩のところまで漕ぎ着ける。

この頃、大日本水上競技連盟は、大日本体育協会に加盟し、初代会長は末弘厳太郎。遠征費を捻出するため、田畑は高橋是清に話を付け、第9回(アムステルダム)の海外派遣費が支出されるようになり、4年後のロサンゼルス大会からは、スポーツ界全体に国の予算(補助金)として支給されるようになる。

そしてアムステルダム大会で遂に鶴田義行が200平泳ぎで金メダル、100自由で高石勝男が銅。

田畑はオリンピック第一主義を掲げ、大日本体育大会の第2代会長・岸清一(初代会長は加納治五郎)を頼り、国際基準を満たすプール(神宮プール)が初めて国内にできる。松澤一鶴をヘッドコーチに迎え、第10回(ロサンゼルス)大会で100自由で15歳宮崎康二が金、河石達吾が銀を。1500自由でも14歳の北村久寿雄が金。100背泳ぎで清川正二、入江稔夫、河津憲太郎が表彰台独占、200平泳ぎで鶴田が連覇。4×200リレーでも優勝。女子でも前畑秀子が200平泳ぎで銀。

 

第11回(ベルリン)大会で競泳は金4、銀2、銅5.初の日本人女性金メダリスト前畑秀子200平泳ぎ。一日20キロも練習で泳いだ成果!“もし金メダルを獲れなかったら日本の皆さんに申し訳ない。その時は帰りの船で海に身を投じます”と悲壮感を漂わしていたそうだ。但しこの時の大会はスポーツが政治に利用されていると感じさせるものだった。

第11回大会開会式前日に、次回開催地が東京と決定するも、第12回(東京ではなくヘルシンキに変更)大会は中止。第13回(ロンドン)大会も開かれず。戦争の影響だ。その間、1934年、田畑は末弘の跡を継いで日本水上競技連盟の理事長に就任。

 

1948年第14回(ロンドン)大会に日本は参加できず。決勝と同日に全日本選手権水上競技大会を神宮プールで開催し、古橋廣之進は世界記録を塗り替えるタイムを出す。

1952年第15回(ヘルシンキ)大会で田畑は選手団・団長を務める。古橋は直前のリオで赤痢にかかり本調子を出せず、水泳で金メダルはゼロに。

 

1956年第16回(メルボルン)大会で、競泳のみならず他の競技でも大健闘し、金4、銀10、銅5と、合計19個のメダル獲得。この後、日本水泳連盟の内紛が起こり、田畑は身を引く。

 

第17回(ローマ)大会の際も東京は立候補し、破れはしたものの、アピールはできた。

競泳陣では銀3、銅2。

そしていよいよ1964年第18回大会で東京開催を勝ち取るため、和田勇の協力を得て東京開催の意義をアフリカのJOC委員に説き、武田恒徳もヨーロッパのJOC委員に説得を試み、1954年5月26日、IOC総会で開催地が東京に決定する。柔道とバレーボールを競技に加えたいと考えた田畑の願いどおりに採用が決まる。

ところが、開催まで後2年というタイミングで川島正次郎との確執から大会組織委員会事務総長を辞任することになった田畑。それでも最後まで選手を励まし続け、東京大会では16個の金。3位の成績。晩年は1973年に日本オリンピック委員会会長に就任。享年85歳。

 

名前だけは知っていた。でも、オリンピック招致のため、日本の競泳発展のために人生を賭けて死力を尽くした方だったというのはこの本で初めて詳しく知った。先人に感謝しかない。