嘉納治五郎物語 逆らわずして勝つ! 真田久

2019年12月24日 第1版第1刷発行

 

フランスの柔道人口は80万人、日本の4倍。今では世界205か国・地域に広がっている。嘉納治五郎の名前は多くの人が知っているが、私は詳しくは知らなかった。この本を読んでどれだけ偉大な人だったのか、良くわかりました。

 

5歳の時から書道や漢字を習い、塾で漢学や書道を学び、11歳から英語も学ぶ(28歳からは英文日記をはじめ42年間続ける)。開成に入学後、16歳で東京大学編入学。そこで知育・徳育・体育を学ぶ。12歳から柔術の修行をはじめ、天神真楊流起倒流に学んだ後、1882年に講道館柔道を興す。「柔よく剛を制す」、「精力善用・自他共栄」の理念の下、教育の分野に進み、学習院で教師をした後、第5高等中学校(熊本大学)、第1高等中学校(東京大学教養学部)、高等師範学校筑波大学)の校長を歴任。長距離走を広め、弟子の金栗四三が始めた駅伝が箱根駅伝に発展。明治以降に日本で初めて留学生を受け入れた最初の日本人。弘文学院もつくる。1909年に日本人初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任(48歳)。第5回オリンピック大会から日本も参加するが、その布石を打ったのも嘉納治五郎。そして欧米のオリンピックから世界のオリンピックにするべく、1930年代に1940年開催のオリンピック東京招致を勝ち取る。が、1938年4月22日、カナダから横浜に向かう途中で亡くなってしまう。その後、日中戦争が激しくなり東京オリンピックは中止。嘉納治五郎を最後にみとった平沢和重がIOCの総会の演説中にそのことに触れたとたん、委員たちにどよめきが走る。大部分の委員たちが嘉納治五郎を知っていて、亡くなったことを悲しんだ、嘉納治五郎の存在がいかに大きかったことかと語っている。1964年東京オリンピックが実現、柔道がオリンピック種目に導入される。

 

利己的な人達が大勢増えてしまった現代の今こそ、他者につくして、自身も完成し、自他共に発展していくという治五郎の精神を継承し、スポーツを実践、ボランティアとして支え合ったりして学びたいとの、著者のあとがきに全面的に賛成です。