高杉晋作 筑波常治

1999年3月15日初版第1刷発行

 

長州藩が、吉田松陰の門下により江戸幕府を打ち倒し明治維新の立役者になったことは誰もが知っている。もっとも、その背景には、天下分け目の関ヶ原の戦いで、家康が毛利輝元を甘言で釣って大阪城から一歩も出させず、勝利を収めると、輝元との約束を反故にして毛利輝元を長州の狭い地域に押し込めてしまう、その恨みが300年間も長州では伝承され、結果、江戸幕府長州藩により倒れたと冒頭に指摘されています。そんな背景があったとは知りませんでした。謀略は負の連鎖を生む。歴史の教訓として、しかと学ばなければならないと思います。

本書は、松陰に結構な頁を割いており、ペリーの船で国外に出て海外の事情を学ぼうとしたが夢を果たせず、獄につながれるものの、自らが学んだことを獄中の者に聞かせ、その後、軟禁された先でも同様に松下村塾として身分に関係なく大勢の弟子を育てる。高杉晋作もその一人。久坂玄瑞に対抗意識を燃やし、両雄となり、その後晋作は江戸に出て昌平黌で学ぶも、教師に情熱を感じることができず、松下村塾を思い出す。松陰はその後幕府に捕らえられ、晋作は松陰に差し入れをする。その後、晋作が萩に戻されると、松陰は処刑される。晋作はその後若殿様のそば役として仕えたが、すぐに海外に出て特に中国の惨状を目にする。再び長州に戻り、下関で外国船を攻撃する事件が起こり、外国からの攻めを守るために身分に関係なく意欲のある者を集めて騎兵隊を結成。京都で蛤御門の変が起き、長州勢が惨敗し、四か国艦隊が関門海峡に押し寄せるのと同時に、幕府が長州征伐に乗り出し、長州藩は存亡の危機に。その時に外国との交渉役を任されたのが晋作で、大役を果たし終えると、今度は周囲からやっかみを買うことに。晋作は長州藩の俗論党を打ち、幕府の参謀の西郷隆盛は晋作の将来性を見越して長州征伐をストップする。この西郷隆盛の態度を見て、幕府は保身の姿を演じ、このため西郷隆盛も討幕論支持に回る。そして薩摩と長州のいがみ合った状態を仲直りさせるべく、勝海舟坂本龍馬が動き、竜馬と晋作の面会が実現する。これにより薩摩と長州の手打ちが実現し、薩摩より武器を入手し軍艦を得て、数で圧倒的に勝る幕府軍に夜襲にかけて勝利を得る。ところが、29歳、晋作は結核で命を落とす。半年後、朝廷は薩摩と長州に討幕の命が下り、維新の幕が切って落とされた。

 

何度も読んで知っていた話ですが、晋作は豪傑ですね。民衆を巻き込み、情熱を常にもち、数ではなく、勢いのある方が勝利を決するという、大事なことを思い起こさせてくれる傑出した偉人の1人です。若くして亡くなったのが惜しまれます。