新訂 海舟座談 巌本善治編 勝部真長校長

1983年2月16日第1刷発行 1989年6月15日第13刷発行

 

 表紙に「卓越した政治手腕をもって崩壊直前の徳川幕府に重きをなし、維新後は海軍卿、枢密顧問官として明治政府に参与した勝海舟が、その50年に及ぶ政治生活をふりかえって語る幕末明治の体験談。歴史的証言として貴重なことはもちろん、筆録者巌本の筆は海舟の語り口を巧みにうつし、魅力あふれる人柄をいきいきと伝える。読みやすい新訂版」とある。

 巻末の勝部真長の解説によると、巌本善治兵庫県出石藩の井上長忠の次男に生まれ、5歳で播州福本藩の巌本家の養子となる。勝に相談してアメリカで13年にわたって勉強した木村熊二が帰国して開いた熊二の塾に入門したのが巌本善治。巌本は明治女学校の発起人となり、寄宿舎で寝起きしていた木村燈子の小伝を女学雑誌に連載し、その序文を書いてもらいに海舟邸を訪ねたのが、巌本が海舟と知り合う機会となる。巌本は海舟信者となり週に1,2回海舟訪問を続け女学雑誌に「海舟先生談話」を連載。海舟の没後に掲載した「先生を失うの歎き」、海舟先生の日常(のちに「氷川のおとずれ」)とまとめて『海舟余波』を発行。その後「続海舟余波」、「海舟先生高談」、「海舟先生高話」などを書き出し、附録を加えて『海舟座談』とし、さらに増補版で附録をその2,その3を追加し「新訂 海底座談」が発行される。談話の日付は明治28年7月から32年1月にかけてである。

 海舟の懐の大きさとでも言えばよいのか、その豪胆さは読めば読むほど、凄まじいと感じいる。何をどう具体的に紹介すればそれが伝わるのかが分からない。現代の人々の感覚を基準にすると、到底伝えることが全くできないのだ。海舟の周りに集まって来た人、周りにいた人、海舟が周りをどのように見て(周りと言っても徳川、薩摩、長州、新政府の人々だが)、それを高所から、ある意味で言いたい放題を言っているように思えるような内容が続く。

 附録その1は、海舟の周辺縁者の話をまとめたもので、海舟の我が儘し放題な様子も見て取れるが、その海舟を訪ねる人々が当代随一の人々なのだから、その器の大きさは推して知れるというもの。

 海舟の言葉として紹介されているものに、ハッとさせられたものはいくつもあったが、「あまり大功を立てて、この上の褒美はやられなくなると、打ち殺すのだよ、こっちは、それほどの功を立てなかったから、伯爵の殿様で、畳の上で死ぬのだよ」というのは、昔も今も変わらぬ真理だろう。