昭和27年6月30日発行 昭和42年11月10日36刷改版 昭和45年5月10日40刷
これほど心の綺麗な善人ばかりが登場する小説は珍しい。果たして現代の人に読み継がれていくのだろうか?と思うほどに、現実離れした一途な人達が登場する。でもやはり読み続けていくうちに今の世の中に最も欠けているものが何なのかを逆に教えられたような気がする。
この小説は、馬鹿一という老年画家のまっすぐな心が中心となって話が展開している。彼は長年、石ころとか雑草とかばかり描くので、「石かき先生」と呼ばれている。馬鹿一の絵は決して上手くはない。周りからは侮られ続けてきた。しかし、真理先生は一目みて、彼の絵の本質を見抜いた。対象に対するまっしぐらさがあるからだ。馬鹿一は人間を書く事ができなかったが、あるきっかけからモデルの女性を描くことになる。そして馬鹿一は絵を急速に上達させていく。
それは愛子という女性と白雲子の息子が結婚することになることと、
この馬鹿一の心根の良さを示す重要なエピソードの一つとしては、馬鹿一の家に出入りしたモデルの杉子がうっかり寝入ってしまってその美しい姿を見惚れてそばに寄って額に接吻しようとした矢先にモデルの目が覚めてモデルを拒絶出した時に馬鹿一がどうしてそのような行為に出たのかの心情を綴り,ひたすら詫びを認めた手紙があげられる。杉子が謝罪を受け容れて再びモデルを引き受けるのだが、それに深く感謝した馬鹿一は後にモデルと馬鹿一の家に出入りするようになった稲田が恋愛関係になった際、一旦はひどく落ち込むがやがて杉子がモデルとして戻ってきてくれた時の恩を忘れずに2人の行末を自身の喜びに転換した姿がもう一つのエピソードとして挙げられる。
真理先生は最後の場面で「真理の力」のテーマで人を集めて講演し、真理の力を語る。これが著者がこの小説を通じて最も言いたかったことだろうと思う。が、私はその途中途中に出てくる言葉に妙に惹かれた。
一つは「大願成就」という言葉を真理先生が泰山という書画に書いてもらおうと考えた理由を皆に語る場面の言葉だ。
私の大願は、すべての人が人間らしく生きられるということです。耶蘇は神の国とその義を求めました。私はすべての人が人間らしく、自分の本来の生命をそのままに生かせる世界を望んでいるのです。今のように正直者が生きてゆけなかったり、他人を憎悪しないではいられなかったり、自己を歪にしないでは生きていられない時代には、なお更、この大願を持たないわけにはゆかないのです。君達も、人間が人間らしく生きられる世界が来ることを望むでしょう。殺される心配のない、自己を曲げる必要のない、強制されることのない、誰にも侮辱されず、自分を美しく生かすことが出来る世界、それを内心望まない人はいないと思います。この望みを成就する為に私達は働きたいと思っているのです。つまり私達が自己を生かすのも、自分の考えを言うのも、この大願成就を望んでいるからです。先ず自分を人間らしく生かそう。自分を生き甲斐のある人間にしよう。そして自分と同じ望みを持つものと協力しよう。そして皆の生命が素直に生きる世界を築き上げよう。つまり大願成就の為に協力しよう。そう思ってこの字をかいてもらったのです。大願成就をいつの時にも忘れたくない、私はそう思っているのです。皆さんはそう思いませんか。
もう一つは真理先生が馬鹿一の画が本物だと思ったことを感じた時の場面の言葉だ。
日本人はね、どうも他人を軽蔑して見る傾向があるね・・・同じ行動でも言葉でも、いろいろに解釈が出来るものだよ。その時簡単に一番下らない解釈をつけて、平気でいるくせが日本人にあるね。外国人より日本人の方がその傾向が強いようだよ。例えば百考えてあることをしたとするね、それを百考えてしたのだとわかる人は一人もいない。それはいないのが当然だ。誰だって他人のことを自分のことのように考えることは出来ないからね。だがせめて30以上は考えた上で、実行したのだ位はわかってもいいと思うが、決してわからないね、うんとわかる人で10迄考えてくれる人は滅多にない。大概の人は一考えただけで、軽蔑して得意になっているね。しかし百考えたのと、99迄考えたのでは、時間がたてばわかるのだ。99迄考えて実行したことが、人々に味わい尽された時分に、百考えた人の値打はあらわれてくるものだ。十迄位きり考えない人は、一時は百考えた人より利口に見えるが、何年かたてば、自ずと結果がわかるものだ。
含蓄の深さが並ではない。