夏目漱石 ちくま日本文学 029 1867-1916

 

2008 年 12 月 10 日第 1 刷発行

私の個人主義
-大正 3 年 11 月 25 日学習院輔仁会において述-

有名な漱石の言葉の出典を探り当てた。

「何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。ああここにおれの進むべき道があった!ようやく掘り当てた!こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事ができるのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむく首を擡げて来るのではありませんか」
そして、後半では、学習院で講演を聞いているのは社会的地位の好い人たちであるため、いずれ権力が使える立場となり、貧民よりも金力を余計に所有するに違いないことから、次のように述べる。「今までの論旨をかい摘んでみると、第1に自己の個性の発展を士遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第2に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第3に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つまりこの 3 か条に帰着する」「これをほかの言葉で言い直すと、いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展させる価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この 3 者を自由に享け楽しむためには、その3つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起こって来るというのです。もし人格のないものがむやみに個性を発展しようとすると、他(ひと)を妨害する、権力を用いようとすると、濫用に流れる、金力を使おうとすれば、社会の腐敗をもたらす。ずいぶん危険な現象を呈するに至るのです。そうしてこの3つのものは、あなたがたが将来において最も接近しやすいものであるから、あなたがたはどうしても人格のある立派な人間になっておかなくてはいけないだろうと思います」と述べている。
「亡びるね」と題する解説の中で奥本大三郎は、千円札に描かれた漱石肖像画に触れて「立派な顔」だという。南方熊楠が明治 20 年代にアメリカに留学した頃には日本人は「優雅謹慎の風」があるとよく言われたそうだが、その後そうした日本人の美風が年々失われていくと英国でしきりに聞かされたとも。その上で「坊ちゃん」の主人公は時代とともにますます俗悪、不正直、低劣になっていく社会に対する怒りがむき出しにされているバイオレンス小説だと評し、「三四郎」に登場する広田先生は三四郎から「これからは日本も段々発展するでしょう」といわれると「亡びるね」と一言だけ発するという場面を取り上げて、金、金、金の世の中を憎悪しただけでなく、その懊悩の深さ故に漱石は神経衰弱になり胃潰瘍にならざるを得なかったと。そして「漱石を読む楽しみは、文章を通じて、一人の真面目な江戸っ子、とびきり上等の日本人の人格に接することにある」と結んでいる。
この解説には感じ入りました。