方法序説 デカルト著 落合太郎訳

昭和28年8月25日第1刷発行 昭和42年3月16日第17刷改版発行

昭和48年7月20日第27刷発行

 

方法序説

 著者の理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を求めるための

 

解題について訳者が5頁にわたって解説した後、本文は第1部から第6部までで構成されており、全体は81頁しかない。しかし訳者註解が長く、145頁もある。

この本を要約するのは難しい。

「序」に「第1部には学問についてのさまざまな考察が、第2部には著者の探究した方法の主要な規則が、第3部にはこの方法から引き出された実践道徳の規則のいくつかが見いだされるであろう。第4部には、神ならびに人間精神の存在を証明する若干の根拠が見出されるであろう。これは著者の形而上学の基礎である。第5部には、著者の探究した自然学の諸問題の順序、なかんずく心臓の運動、そのほか医学に属するいくつかの難問、つづいて私どもの精神と動物の精神とのあいだに存する相違が説明されるであろう。最後の部には、著者が自然の探求において、これまでよりさらに前進するために必要と思われることなど、それと著者に筆を執らせた理由などが見いだされるであろう」とあり、これが全体の概要である。

 

第2部、注33の「未知の真理を発見するためには、三段論法は役に立たなくなる」との記述はドキッとさせられた。確かにそうだ。三段論法の適用範囲というものには限界があるということをこの表現によって改めて認識できた。

 

第3部 デカルトの当座の3準則

1 国の法律および慣習に服従してゆこうということ

2 一たびそれとみずから決定した以上は、それがきわめて確実なものであったかのように、どこまでも忠実にそれに従うということ

3 運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること

 

第4部.45頁に有名な「私は考える、それ故に私は有る」が哲学の第一原理として定立されています。この注だけで9頁もの分量を割いて説明がある。が、注を読んでも、今一つよくわからない。一般的な解説書を読んで、この考え方こそが、当時のキリスト教的世界観を脱却し、人が神を離れて真理を探究することを可能にしたことで近代哲学の父と呼ばれるようになったということがかろうじて理解できる。

 

第5部 人間の血液は心臓を中心にして全身を隈なく流れていく、その場合、動脈から流れた血液が静脈を通じて心臓に戻っていく様を数ページにも亘って描写する。その上で人体と機械との比較を行い、更に人間と動物との対比を考察する(訳者註によると、モンテニューは人間同士のあいだの相違のほうが人間と動物のあいだの相違より大きいといい、デカルトはこれに反対し、そのためにこの考察を展開したようである。注46)。そして「精神と身体とが結合して一つになるのはもっと緊密なものである。なおその上で、私どもにおけるごとき感情をも欲望をも持ち、かくして真の人間を構成するようにならなければならぬのである」とし、5部は「その精神をうち滅ぼす他の原因を発見せぬかぎり、ひとはここからして当然にも、精神は不滅であると判断することになる」と締めくくっている。

 

第6部 ここは前時代的な内容のように思われる。したがって、略。

 

初めて方法序説を通読した。

「われ思う、故われあり」という言葉でしかデカルトのことを理解していなかったが、この哲学の第一命題を導き出すに至るデカルトの態度、またスコラ哲学と対決するデカルトの姿勢、更には独特の回りくどい表現は、読んでみて初めて味わえるものであった。これからも古典的名作といわれる書物については、少しずつでも繙いていきたい。