小僧の神様 志賀直哉

1975年初版発行 1987年8月第11刷発行

 

短いが、考えさせられる小説だった。

秤屋に奉公している仙吉は番頭たちが旨い屋台鮨屋の話をしているのを耳にした。その鮨屋の位置だけを知っていた仙吉はある時使いに出た時、その鮨屋ののれんをくぐり、「勢いよく」手を伸ばしたが、「1つ6銭だよ」と主に言われると「落とすように黙って」その鮨をまた台の上に置く。「一度持ったのを置いちゃあ、しようがねえな」と言った主は新しい鮨を置くのと引き換えにそれを自分の手元に返しすぐに食ってしまった。その時、貴族院議員のAと議員仲間のBがいた。

Aがある時秤屋に行くと仙吉を認め、届け先に仙吉を連れていくと言って店から連れ出した。鮨屋での出来事が可哀想に思ったAは鮨屋に仙吉を連れて鱈腹御馳走してあげる。ところが、Aは後で、変にさびしい、いやな気持を感じる。人知れず悪いことをした後の気持に似通っている。

仙吉はどうして自分をあの鮨屋に連れていってくれたのか、屋台鮨屋で恥をかいたことも自分の心の中まで見通して御馳走してくれた、それは人間業ではないから神様かもしれないと考えた。仙吉は再びそこへ行く気はせずつけ上がることが恐ろしかった。悲しい時、苦しい時に必ずあの客を思うだけで慰めになった。またいつか思わぬ恵を持って自分の前に現れてくれることを信じていた。こんなお話だ。

小僧の神様」というタイトルが付けられたのはAが仙吉にとって神様のように思えたからだろう。問題はAがさびしい、いやな気持、人知れず悪いことをした後の気持に似通っている感情を抱いたのが何故なのか、だろう。筆者はこの説明を一切していない。

 これを考えさせるところにこの小説の面白みがきっとあるのだろうと思う。それは人に物を恵むという行為は勿論善意から出る場合がほとんどでそれ自体褒められることなのかもしれないが、果たして恵まれた側からすると、一時的には喜びに他ならないから、恵んだ側がさびしい、いやな気持になる必要がないはずだ。だけれども、そこにそんな感じを抱くのには一種の罪悪感があるからだろうと思う。その罪悪感はどこから来るのかと言えば、一つは身分というか立場というか、持てる者と持たざる者との違いというか、要するに上から目線で物を見ることへの罪悪感があると思う。もう一つには根本的には恵むだけでは人を本当に幸せにすることはできない、むしろ恵みを受けるのではなく自力で恵まれずに済むようにその人を励ましたり、成長させたりといったことが本来的には必要なのにそれをせずに安直に恵むという行為でその場しのぎ(人に喜ばれることをした、という一種の快楽を自分が味わいたいが為に!)をしたということへの罪悪感があったのだと思う。これらの罪悪感は意識する、しないに関わらず、感じるものだと思う。そのあたりを読者に考えて欲しくてこの短い小説が出来上がったのではないだろうか?作者の真意は果たして如何に?

 

「正義派」

少女が電車に引き殺された場面を目撃した工夫が、取り調べに対し運転手や監督が嘘をついているのを聞き逃すことが出来ずに”嘘をつくな”と抗議の声をあげる。が、これは自分の仕事を失うことでもある。結局、工夫たちは本当の声をあげた当初は興奮した状態だったものの、時間が経過するにつれて世間が彼らの正義の行動に関心を示さないことに空しさや寂しさを感じて最後は突っ伏して泣き崩れる、というお話。

 

清兵衛と瓢箪

瓢箪に夢中になり、しょっちゅう瓢箪の手入れをする少年清兵衛。父からも学校からも将来の見込みナシと言われるが、彼が手入れをしていた瓢箪は学校の先生に取り上げられ小使の手に渡る。骨董品屋に持って行くと50円で売れる(教員の4か月分の給料に相当する)。骨董品屋はこれを600円で売った。見る目のない人が見てはいけないというお話。権威の象徴である父や先生の言ったことであっても本当の値打ちを見定めることが必要だということだろう。