受け月 伊集院静

1995年6月10日第1刷 2011年6月10日第12刷

 

裏表紙「人が他人のために祈る時、どうすれば通じるのだろうか・・・。鉄拳制裁も辞さない老監督は、引退試合を終えた日の明け方、糸のようなその月に向かって両手を合わせていた。表題作のほか、選考委員の激賞を受けた『切子皿』など、野球に関わる人びとを通じて人生の機微を描いた連作短篇集。感動の直木賞受賞作。解説・長部日出雄

 

夕空晴れて

 野球を心から愛していた亡き夫が後輩に言い残した言葉を、妻が後輩から聞かされる。

後輩が監督を務める少年野球チームに小4の息子が世話になっているものの、息子が試合に出させてもらえず、小間使いのように使われている姿を見たため、文句を言いに行った妻が後輩の監督から聞かされた言葉が深くて渋い。中でも「野球ってスポーツはいいだろう。俺は野球というゲームを考え出したのは人間じゃなくて、人間の中にいる神様のような気がするんだ。いろんな野球があるものな。おまえにもそのことをわかって欲しいんだ。自分だけのために野球をするなよ」という夫が後輩にかけた言葉は、当時は後輩には意味が解らなかった。後輩は当時はエースの座を奪われた悔しさから言われたのだと思っていた。ところがプロを目指すもプロになれず、高校の監督を3年やって、草野球を先輩とやっているうちに野球の楽しさを知り、先輩の息子が野球をしたいと言い始めたら教えてやってくれ、おまえの野球にはもう神さまがついているから頼んだぞと手を握られたことを妻は後輩の監督から聞かされる。そんな監督の下で息子が世話になっているとは露知らず、感動で涙に溢れた妻が最後に息子とキャッチボールする。今は亡き夫、でも夫が深く愛した野球を今息子が同じように楽しくやっている、それを通して野球の良さ、家族の有り難味を教えてくれている、なかなか味のある作品。

 

切子皿

 主人公が高校生の時、父は母と自分を捨てて出ていってしまった。そんな父親に会う必要が生じたため、何十年ぶりかで、父親と再会する。母が亡くなった後、母名義の土地が出てきたので、父に放棄してもらうためだった。再会した父は息子を連れて祇園鮨屋に入っていく。どうしてこんな父と母は結婚したのだろうと思っていたが、両親のことを良く知る知人から、実は父は都市対抗野球で優勝したエースで、母が一目惚れをして結婚したと聞かされる。そんな父は京都で落ちぶれた仕事をしていたが、それでも一流の店で飲食する習慣を失わずに息子を鮨屋に連れていく。そこで出された鱧を盛りつけたのが切子皿。主人公の息子は高校に進学せず、板前になると言った日に父と再会することになるのだが、父と会った後、そんな息子の将来にも理解をし始める主人公だったが、なぜか再会した父が主人公の息子の名前を知っていたのに驚いて、話は終わる。きっと父は息子のこと、孫のことをずっと気にかけ続けていたのだろうという深い余韻を残して。

 

冬の鐘

 鎌倉で小料理屋を営む久治と妻由紀子、問屋の丸越の主人、そして長身の久治よりも更に大柄な客の大矢。そして、ある時久治と大矢の二人で入ったバーのマスター。5人それぞれの過去と今の人生が交差しながら話が展開する。メインは久治と大矢。大矢は、現在は草野球に熱中し、最終戦の祝杯を挙げるため、チームメンバーと、久治の店で、丸越の主人から仕入れた、大矢が大好きな特大の鮟鱇鍋をつつくことになる。

店の名前“はる半”は、両親のいない久治の面倒を親身になって見てくれた丸越の主人がつけてくれた。最終戦の祝杯を久治の店で挙げることになったのは、以前から店に来ていた大矢と仲良くなった久治が大矢のチームに助っ人で野球チームに参加したり、二人でバーで語り合ったりしたからだが、このバーでのマスターを交えた3人の会話が俊逸。大矢はかつては高校野球のスター選手でプロに行かずに惜しまれた選手だった。店の客がかつて大矢と高校時代に対戦したことがあったためひょんなことから大矢の過去を知った久治。マスターはマスターで、かつてボクシングの世界で東日本の新人王だった。「どんなスポーツの世界だって、チャンプになろうと思えば、実力だけじゃ駄目だな、やっぱり運がなけりゃね」と語ると、久治は過去に誰にも話してなかった過去の話を始める。中学まで野球をしていたが、相撲の世界に入るものの、物にならず板前になって今があることを自然なうちに二人に話す。そんな相撲時代に追っかけてくれたのが妻由紀子だった。その時最終戦の祝杯を久治の店で行うことが決まり、とびきりの鮟鱇を仕入れて、二人はまだ半人前だぞって言われた丸越のおやじを思い出しながら、約束の日午後5時を迎えたときに建長寺の鐘が余韻を残しながら聞こえると、ガラガラと木戸が開く。映画を見ているような気分にさせられる短編だった。

 

苺の葉

 20年ほど前にかつての恋人と一緒に新宿の映画館で見た映画を見ている伸子が、最前列に腰かけた男の後ろ姿を見て、もしやかつての恋人では?と思い、過去の回想シーンが始まる。浴衣姿で母と弟と三人で遊びに行った祭りでやくざの喧嘩に巻き込まれそうになった時に助けてくれたことがきっかけで付き合うようになり、遂に母や弟に内緒で駆け落ち寸前までいったものの、結局結ばれることなく別れた昔の恋人が同じ映画館にいるのかもと思う伸子だったが、結局、確認できずに終わった。

 

ナイス・キャッチ

 野球一筋の父が高校野球の監督をつとめていた。野球の才能があった息子が父の高校に入らず他の高校に入ったために急に親子の仲が悪くなり、その間に挟まれた妻であり母でもある和子が、夫でもあり父でもある美智男と息子の和政を誘って温泉旅行に出かけた。

 旅行先で、風呂に入りながら、美智男が和政のバッティングのおかしい所を指導するため互いに裸で指導する姿が微笑ましい。妻が二人の会話を聞きながら昔本郷の旅館に泊まったこと、上野動物園でゴリラにりんごを投げたらナイスキャッチされて周囲からそう叫ばれたこと、美智男がそんなゴリラの家族のように仲良く暮らせたらいいなといったことを妻が今も覚えていると言ったお話。だから「ナイス・キャッチ」。

 

受け月

 ネットでググると、盃のような形をした三日月のことを受け月というらしい。受け月に向かって祈ると祈りが叶うという言い伝えもあるとのこと。

それを知って、この小説を読むと、主人公が最後の場面で祈りをささげる姿が妙に印象に残る。社会人野球に生涯をかけた主人公の老監督は、監督時代は、選手たちに「祈ったりしては駄目だぞ。自分で乗り切ると、性根をすえるんだ。誰も助けてはくれないぞ。生きるか、死ぬかだ。祈ったり助けを乞うてはいかん。おまえの力でここを乗り切るんだ」と語っていた。ビンタをも平気で飛ばす強烈な精神力の持ち主で、黒獅子杯を7度獲得した名監督だったが、ついに引退の日がやってくる。タイミングがちょうど娘の婿が大手術を受けるときで、妻からお守りを持たされ、また孫たちの健康も含めて、月にむかって祈り、野球部のことも祈る。そして妻のことも。そんな「受け月」が表題作。なるほどなあ、という感じです。