「わかる」とは何か 長尾真

2001年2月20日第1刷発行

 

帯封「50ヤードなので柔らかさが重要だこの文がわかるには何が必要か?」

表紙裏「私たちはどんなときに『わかった!』と言うのだろうか。言葉、文章、科学的内容、気分…。いったい『何が』わかるのか。わかるには、何が必要で、どんなステップを踏むのか。IT、クローンなど、生活の中でつぎつぎと押し寄せてくる科学技術を題材に、科学的説明のしくみや困難点、さらに社会的受容の道すじを考える。」

 

帯封の回答は、「4言葉を理解する」の中の「6文脈と知識による解釈」の中にある。これを通じて、「わかる」には3つのレベルがあるとする。第1は言葉の範囲内で理解することであり、第2は文が述べている対象世界との関係で理解することであり、第3は自分の知識と経験、感覚に照らして理解すること(いわゆる身体でわかる)というレベルを設定することが必要である、とする。

そもそも著者は説明文には二種類あると述べ、事実を述べる記述と、疑問に対する答えの文である説明があり、前者にはなぜそうなのかという問いは存在しないと言ってよいかも、という。そこから演繹論的説明(一般から個別へ)と帰納的推論(個別から一般へ)の違いを述べ、「理解できた」と「わかった」の違いについても言及する。すなわち理解できたとは、他人からくわしい説明をうけ、それを論理的にわかることであり、これまで知らなかった知識を与えられ、それが論理的に自分の持っている知識と整合的であるという場合に理解できたということになる。これに対し、「わかった」というのは話題になっていることに関連した知識はほとんど持っている、しかしその話題がその知識によって解釈できない、という状態にあって、そこで何かのヒントを得た結果、持っている知識によってその話題が完全に解釈できるということがわかったとき、「わかった」ということになる。

その上で情報科学を専攻する著者(当時京都大学総長)らしく、科学技術がわかるということの難しさについて問題提起し、分割されて異なる部分に属したものの間の相互関係が多くの場合無視されてしまうという危険性に警鐘を鳴らし、それに対し最後の章となる「6科学技術が社会の信頼を得るために」の中で、キーワードとして「シンセシス(合成・創造)」、「社会に対する説明義務」、「科学者、技術者の倫理」を指摘し、西洋の思想と精神を知ることにより科学技術の可能性と限界が明らかとなるので粗削りな議論を紹介した上で、最後に、アジア的転回ともいうべき、ものの考え方の転回の大きな可能性を指摘して終わる。