斜陽日記 太田静子

2012年6月30日第1刷発行

 

帯封「作家は、いかにして“文学”を生んだかー? 太宰治の“愛人”として娘を生んだ著者が綴り、『斜陽』とともに読まれた問題のベストセラー」「『斜陽』のかず子の最後の手紙、あの一字一句、そのままに、生きようと思います。あのかたは、いままで、私に、一度も『小説を書いて、生きて行きなさい。』とは仰っしゃいませんでした。日記や手紙を書くように、とは仰っしゃいましたけれど…[あとがきより]」

裏表紙「太宰治が、出世作『斜陽』の下敷きとした、回想録的な日記。“愛人”として娘を生んだ著者が、1945年の春から12月までの日々を、太宰に勧められるままに綴って渡した。文学史的にも貴重な作品を復刊。娘・治子のエッセイや太宰からの手紙を特別収録。《解説・出久根達郎》」

 

巻末の出久根達郎の解説「『お母さま』は何者か?」によると、反戦小説とも、戦時下の読書記録とも読むことができるが、解説者は『斜陽日記』は思想小説である、静子の純真さは胸を打つ、日本人のみが理解できる、これは優れた思想小説ではあるかいか、という。

娘の太田治子のエッセイ「母の糸巻」では、かず子の最後の手紙だけはほとんど暗記していた、太宰の創作であるこの手紙は、太田静子にもこのように生きてほしいというはげましが込められているように思われる、斜陽日記は余りに斜陽と重なる場面が多いだけに、これは太宰の死後母がねつ造したのではないかと書かれたことがあった、母はずっとそのことをかなしがっていた、太宰が入水して母は初めて美知子夫人の苦悩に思いを馳せ、お供をした山崎さんの一途な心に深々と頭を下げた、斜陽も斜陽日記も少女の頃から数頁しかよむことができなかったが、後年、暮しの手帳の編集長となられた花森安治氏が装丁してくださったいじらしい糸巻のお陰で斜陽日記のページを開くことができた等、とある。

 

疎開先でのヘビ事件、ボヤ事件、玉音放送、静子とお母さまとの会話、兄の復員など、随所に斜陽と同じ場面が登場する。チェーホフの「桜の園」、「風と共に去りぬ」も登場する。

「人間は恋と革命のために生まれて来たのであるのに。」という静子の言葉は、斜陽のかず子も同じ言葉を言っていた気がする。確かにこれほどまでに似た小説というものは、他にはあるまい。